唐代の禅僧、趙州和尚は、弟子との対話でこのように言っている。「大難来たり、如何が回避せん」(大きなトラブルが襲ってきた。どうしたら避けられるでしょうか)と言う質問に、「あたかもよし」と答えている。それも良いではないか。困難は受け止めなさいというのである。来るものから逃げることなど出来はしない。回避したいと悩むから苦しみが始まるのだ。回避したいと思わなければ悩むことはなく、苦しみも始まらない。「恰好良い」は「あたかもよし」と生きる姿勢を褒め称える言葉である。何でも受け止めて生きることこそ「カッコいい」のである。ところが何事によらずすぐに人が我より偉く見える劣等感の塊のような私が解ったことは、どこに居てもくよくよ悩む人間なのだと言うことだった。悩みは状況や環境のせいとは限らない。悩む人はどこへ行っても悩むのである。人もうらやむような会社に居ても、駄目だ!と辞めたがるし、良い人間関係に恵まれていても、つまらない!と思ってしまう。これは、つまらないのは自分自身であり、駄目だと思うのは自分の心なのだということである。
禅語に「誰(た)が家にか名月清風なからん」というのがある。誰の家にも月は明るく照らし、清風は爽やかに吹いている。存在価値のない人など居ない。誰もが喜びを持って生きて良いのだ。しかしここで肝心なのは、存在価値を自分で感じないことには、どこへ行っても月の光を浴びることなく、風の爽やかさを感じることは出来ないということである。月を感じるのも風を受け取るのも、自分の心の持ちよう一つなのである。しかし往々にしてその反対に思って、何事も周囲のせい周囲を恨んでばかりいることが多い。そのためには己事究明が第一である。これは中国の名僧雲門の言葉だが、自分自身をしっかり見つめなさいということである。ここで重要なのは、ではその自分自身とは一体何者なのかと言うことである。単に笑ったり泣いたり喜んだり悲しんだりしているのが自分だと思ったら大間違いで、その奥にじっと静かに、満々とたたえる湖水のごときものがあるのである。自然界は雨の日あり晴れの日あり、そのように自分もその時々縁に応じて変化してゆく。つまり自分とは流動的で相対的なものなので、絶体不変の自己などない。これこそが自分だという自分は居ないのである。時に応じ折りに応じて変容してゆくのが自分なのである。
ではどうすれば良いのかであるが、そのときどき出来ること、やるべきことをひたすらに行う。晴れの日には晴れているから出来ることをする。雨の日は雨だから出来ることをする。その時その時をひたすらに生きるのである。悩みや苦しみをなくす方法はこれより外にはない。これは自己の面目を返照すると言うことでもある。世間の物差しなど当てにはならない。例えば美人は、昔はきりっとした眼にふっくらした頬だったが、今は小顔に大きな目だという。憧れの職業でも、昔は医者や教授だったが、今はサッカー選手や宇宙飛行士である。この世に変わらぬものなどない。自分の本来の姿を見つめて生きることである。
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