修行者として当然の質問をしているのに、いきなり胸ぐら掴まれ、横っ面張り飛ばされ、突き倒されたりと、さんざんな目に遭い、ここのどこに仏法の神髄があるのかと思われるに違いない。何故禅僧は質問に対し丁寧に答えてやらないのか理解に苦しむだろう。師匠はいつもこう言っておられた。「徳利に酒がいっぱい詰まっているか空っぽなら振っても音はしない。底の方にちょっと酒が入っている徳利は、振るとちゃびんちゃびんと喧しい音がする。禅僧も然りで、殆ど修行をしていない者は、問われても何も分からないから黙っている。また修行を極めた者もぎっちり詰まっているから無駄口は叩かぬ。始末の悪いのは、二,三年ちょっと僧堂に行った者が、分かったような顔をしてぺらぺらやることだ。」 一般の人は、例えそうであっても、何か言ってくれなければ分からないではないですかと言う。では言えば分かるのかということになるが、言っても決して分かりはしない。言って解るくらいなら、こんな楽なことはない。仏法の神髄は、難行苦行の末、自ら悟る以外にはないのだ。
私は雲水が朝晩参禅に来たとき、最初のうちは殆ど無言で通す。師家によると、半年とか一年、全く参禅そのものをさせないという人もあるそうだ。どうせ無茶苦茶なことを言ってくるのだから、そんなのは時間の無駄、参禅させない方が良いと言うことなのだろう。しかし私はそうは思わない。人間誰でも楽をしたいから放っておけば怠惰に流れる。無駄な参禅をさせるより禅堂でしっかり坐って、数息観をさせた方が良いという考えかも知れないが、参禅しなくともいいとなれば、誰が真面目に数息観なんかやるものか。どうせくそ妄想かわくのが落ちだ。たとえくだらない見解でも、室内で老師の前に行き、拝をして間近に向き合う緊張感は、万言に勝る聞法になり、自ら内に向かう機縁とも成る。無意味な参禅などないのだ。
ある対談集を読んでいたらこんな事が載っていた。「マイナス体験が人格を作ることも多いのですね。例えば不慮の事故で親しかった友達が死んだときなど、カウンセラーが入って、なるべく早く切り抜けさせたりするのは、とても間違っていると思う。深く悲しむ、あるいは悲しめない、簡単に忘れてしまうことでも、人間は傷つきます。あんな仲が良い友達が死んだのに、自分はこんなに回復してしまうのか、と。こういう傷つき方だって人格を作りますからね。マイナス体験は、実はもの凄い豊かな物を持っていると思うんです。」「一つ良い例があります。私がケンブリッジにいたとき、教授と一緒にお茶を飲んでいたら、近くに中学生くらいの女の子がいた。どの教授のお嬢さんですかと聞いたら、ドクター論文を書いている十六歳の学生だという。そのルース・ローレンスという女の子は、十一歳でオックスフォードに一番で入って、十三歳で卒業して大学院に入り、十七歳でドクター論文を完成し、翌年十九歳で海を渡ってハーバード大学の数学科の講師になりました。全部世界新です。お父さんは、数学だけを遣っていればよいという方針で、もう数学、数学で本も一切読まない。友達とも遊ばない。十九歳でハーバードの講師になってから十数年経ちますが、ここ十年間は全く名前を聞かないです。並の数学者になったのでしょう。…寄り道とか回り道とか、何もしないでターゲットに向かって一目さんで走っていくと早晩限界に行き当たりそうな気がします。幼稚園の砂場でトンネル作って水を流したり、友達とつかみ合いの喧嘩をしたり、そう言うことの全てがその人の情緒力になる。…ルース・ローレンスの場合、ドクター論文を書くという分野では天上までいってるのですが、研究者の場合は、これをさらに上に突き破らないと意味がない。この独創力に必要なものこそ、情緒力なのです。つまり回り道とか寄り道とかネガティブな経験の全てが、長い目で見ると独創力の源泉になっているのです。全く普通に悩んで、普通に泣いて、普通に喧嘩して、これが一番独創性に良いんです。」
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