バッハの中でも特にゴルトベルグ変奏曲が好きで、ベレゾフスキーの演奏と同じ日の夜、アメリカのユリ・ケイン率いるアンサンブルを聴くと言う贅沢を経験した。ところが驚いたのは、ユリ・ケインだった。最初神妙な感じでアリアを奏で始め曲が進むにつれて不思議なことが起こった。奇妙なノイズや赤ん坊の泣き声が混じってくるのだ。アンサンブルのドラマーがドンドン、カンカンと打ち鳴らし始める。こうなるともはや、クラシカルなバッハはどこにもない。私は心の中で快哉(かいさい)を叫んだ。この変奏こそがゴルトベルグであり、この自由がバッハだとわかった。ここに音楽の律動が余すところなく発揮されており、その律動は本来私たち自身のものである。私たちの生命体の内部には、実に様々な律動が内包されている。心臓の鼓動、呼吸の起伏、脳波の低周波、絶え間なく流転する生命の動的平衡を支えかつ鼓舞している。まさに音楽の起源はここにあるのではないか。
同じ年のゴーデンウィーク、東京国際フォーラムで開催された音楽祭ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンに出かけた。さて名手たちのゴルトベルグを聞き比べた。穏やかで控えめなシャオメイ・シュ、彼女は文化大革命の犠牲者だ。下放政策によって癖村に送られ数年にわたって満足な練習が出来なかった。現在はパリを拠点に活動しているが、彼女の演奏は不思議なまでに透明だ。そこからは彼女の過去の如何なる傷も感じることはできない。又韓国の若手イム・ドンヒョクの演奏は痩身の青年にもかかわらず、演奏は意外なほど力強く、時折うなり声まで聞こえる。また今井道子らによる弦楽三重奏のゴルトベルグはバイオリン、ビオラ、チェロ、それぞれの弦の音色は華やかで重なりがとても面白かった。なぜ同じ曲なのにこれほどまでに表情が異なるのだろう。私はふと思った。それは遺伝子と人間のあり方に似ている。遺伝子は私たちを規定し運命ずけているように見えるけれど、それは楽譜の音符のように使う音の高さと長さを指定しているだけだ。つまり各細胞が使うべきミクロなパーツのカタログを与えているに過ぎない。遺伝子の集合体であるゲノムは、だからプログラムでもなく、指令書でもない。どれくらいの強度で、どんなフレージングで、どんな指使いで弾くのかはすべて奏者に委ねられているのだ。バッハの音楽の構造は特にそのような自由さに満ちあふれている。ゴルトベルグは多様な表情を持ち、どのような特定の情景や情念とも結びつくことがない。それは私たちの生命のあり方にも言えることなのだ。遺伝子はその発現の強度と関係性を、環境との相互作用にのみ委ねている。
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