生命の律動と音楽
 
 音楽はどこから来たのだろうか。スズムシやマツムシ、いろいろな鳥の声、あるいは木から木へ飛び移る猿たちの叫び声、これらは生物学的な説明をすれば、すべてオスがメスを呼ぶコミュニケーションの道具として発達したと見なすことが出来る。しかしまた別な見方も成り立つのではないかと思う。生物学者の福岡伸一氏はこのように言っている。『機会あってフランス西部、ロワール河口のナントで開催される音楽祭、「ラ・フォル・ジュルネ」(熱狂の日)に参加した。この年のテーマはバッハ。翌朝早くから出かけた音楽祭は、旅の疲れを溶かしてくれる素敵なものだった。朝から晩まで、四十五分程度の短いコンサートが同時並行で開催される。有名な奏者から売り出し中の新人まで、同じ人が違う曲を演じたり、同じ曲を違う人が演じたりする。プログラムを眺めつつ、あっちこっちのホールをさまよう。

バッハの中でも特にゴルトベルグ変奏曲が好きで、ベレゾフスキーの演奏と同じ日の夜、アメリカのユリ・ケイン率いるアンサンブルを聴くと言う贅沢を経験した。ところが驚いたのは、ユリ・ケインだった。最初神妙な感じでアリアを奏で始め曲が進むにつれて不思議なことが起こった。奇妙なノイズや赤ん坊の泣き声が混じってくるのだ。アンサンブルのドラマーがドンドン、カンカンと打ち鳴らし始める。こうなるともはや、クラシカルなバッハはどこにもない。私は心の中で快哉(かいさい)を叫んだ。この変奏こそがゴルトベルグであり、この自由がバッハだとわかった。ここに音楽の律動が余すところなく発揮されており、その律動は本来私たち自身のものである。私たちの生命体の内部には、実に様々な律動が内包されている。心臓の鼓動、呼吸の起伏、脳波の低周波、絶え間なく流転する生命の動的平衡を支えかつ鼓舞している。まさに音楽の起源はここにあるのではないか。
同じ年のゴーデンウィーク、東京国際フォーラムで開催された音楽祭ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンに出かけた。さて名手たちのゴルトベルグを聞き比べた。穏やかで控えめなシャオメイ・シュ、彼女は文化大革命の犠牲者だ。下放政策によって癖村に送られ数年にわたって満足な練習が出来なかった。現在はパリを拠点に活動しているが、彼女の演奏は不思議なまでに透明だ。そこからは彼女の過去の如何なる傷も感じることはできない。又韓国の若手イム・ドンヒョクの演奏は痩身の青年にもかかわらず、演奏は意外なほど力強く、時折うなり声まで聞こえる。また今井道子らによる弦楽三重奏のゴルトベルグはバイオリン、ビオラ、チェロ、それぞれの弦の音色は華やかで重なりがとても面白かった。なぜ同じ曲なのにこれほどまでに表情が異なるのだろう。私はふと思った。それは遺伝子と人間のあり方に似ている。遺伝子は私たちを規定し運命ずけているように見えるけれど、それは楽譜の音符のように使う音の高さと長さを指定しているだけだ。つまり各細胞が使うべきミクロなパーツのカタログを与えているに過ぎない。遺伝子の集合体であるゲノムは、だからプログラムでもなく、指令書でもない。どれくらいの強度で、どんなフレージングで、どんな指使いで弾くのかはすべて奏者に委ねられているのだ。バッハの音楽の構造は特にそのような自由さに満ちあふれている。ゴルトベルグは多様な表情を持ち、どのような特定の情景や情念とも結びつくことがない。それは私たちの生命のあり方にも言えることなのだ。遺伝子はその発現の強度と関係性を、環境との相互作用にのみ委ねている。

 最近、エビジェネティックスという考え方が出てきた。エビとは外側、ジェネティックスは遺伝子、つまり「遺伝子の外側で起きていること」と言う意味である。遺伝子以外の何かが生命を動かしているということである。古典的なダーウィニズムでは突然変異が起こり、環境に適合したものだけが生き残ってきたと言う。だから進化には目的や方向性はなく、ランダムに変わる。しかし環境がそれを選択するから目的があるように見えると言ってきた。ところが進化はそれだけでは説明しきれない。突然変異はごくまれであり、それが環境に対して有利な方向に起こるのはさらに希なことである。にもかかわらず生命の進化速度を見ると突然変異の発生頻度よりもずっと早く生物が多様化している。そこで考えられたことは、遺伝子のスイッチのオンオフの順番とボリュームの調節に変化がもたらされたのではないかという考え方である。例えば犬にはセントバーナードからチワワまで多くの種類がある。これは品種改良によるもので、遺伝子的にはほとんど違わない。毛の長さや色などをコントロールする遺伝子に違いはあるが、セントバーナードとチワワの違いをすべて説明しきれるほどのものではない。つまり犬種の多様性は遺伝子の違いだけから生じているのではなく、共通に有している遺伝子の動くタイミングや順番、ボリュームが異なるからではないか。多分遺伝子は音楽における楽譜と同じ役割を果たしているに過ぎず、誰がどのように演奏するかで違う音楽になる。そう考えた方が私たちは豊かに生きれるのではないだろうか。』
参考資料、福岡伸一著「動的平衡」

 

 

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