ほんらい仏
 
 大変親しくさせて頂いている或る僧堂の老師がこんなことを言っておられた。『小僧をしていた頃は、近所の人は自分のことを皆「ちんねんさん」と呼んでいたが、最近は雲水を見ると皆、「一休さん」と呼ぶようになりましたね~。これも漫画の影響でしょうか』。以前喉を痛めて治療に県立病院に通っていたことがあった。治療も済んで薬を貰うため待合室に腰掛けていたら、誰やら私の衣の袖を引っ張っている。何だろうとふと見たら四,五歳の坊やが、ぎゅっと袖を握っているのである。目が合ったら小さな声で、「一休さん!」と言った。その隣に居たおばあちゃんが、「すみません、うちの孫はおっ様が大好きで、お常飯のときもおっ様の隣に座って袖を握るんです」と言った。

な~るほど、やっぱり一休さんだ。一般の方に禅僧でご存じの名前はありますかというと、十中八九は一休さんと答える。しかし素晴らしい禅僧は一休禅師だけではない。江戸中期、静岡県の原に白隠さんという、後世五百年間出の禅僧と言われた人が居る。この方が「坐禅和讃」を残されているので、それに従って少しお話をさせて頂く。この和讃は冒頭、衆生本来仏なりと言う言葉で始まっている。生きとし生けるものは、つまり一切の生物、命あるものはみな仏さまだという。人間は勿論、牛や馬であっても、また草や木、野に咲く一輪の花、目に見えないような微生物に至るまで悉く皆仏なのである。人間のうちにもいろんなのが居る。人間らしい人が仏になれて、人間らしくないのは仏にならないと言うのではない。極悪非道の悪人でも同じ仏なのである。
これは今から二五〇〇年前、お釈迦様が言われたのだが、この言葉は大変なことで、そう言う精神界に位置づけることは実にすごい事なのだ。一神教のキリスト教やイスラム教では最高の理想を象徴する者は唯一神の、イエスかアッラーに決まっているので、人間や動植物まで神だ仏だなどと言ったら狂気の沙汰と思われる。神様は高いところに超然としている存在で、せいぜい神の僕として天国へ行ってサービスでもさせて頂ければ一番光栄だというのである。ところがお釈迦様は人間こそ仏だと言われた。ここで問題は仏とは何かである。
そもそも仏とは、仏陀というインドの言葉で、「悟った人」という意味である。では悟った人とは一体何を悟ったのか。人間にとって一番の悩みは生き死にのことである。我々はみな生死があると思い込んでいる。あの人も死んだこの人も死んだ、やがて自分も死ぬだろう。しかし悟りの世界から言うと、生死はない。無いものを有るように思って悩む。つまり生や死が有ると思っている常識が迷いの世界、生き死にがない世界を悟りの世界という。その悟りが分かった人が仏、悟った人なのである。お釈迦様は悟られて、これは一人自分だけではなく、悟りなどまだしていない人も、その悟りの真っ只中に居るのだと言うことが分かった。ここにすべての人は仏なりという教えの根本がある。お釈迦様は修行をして悟ったのだが、多くの人は気がつかないだけで、本当は自分が悟ったのと同じ世界に居るのだということが分かった。悟りの心は誰にでも備わっている、つまり人間は初めから救われていると言うことなのである。ただここで難しいのは、本来救われているというこの信念に徹しきれない、それが迷いなのである。この根本の信念をはっきりさせるのが修行なのである。
さてこの根本の信念に徹しきるために実践的な修行がいる。まず第一は布施、お坊さんにお経のお礼に差し出すお金を布施と解釈している人が多いが、本来は施しを言う。会社が払う給与も布施、労働者が労働力を提供するのも布施、何事も捧げ合うことが大切なのである。次に持戒、これは戒律のこと。戒めを保つことである。お坊さんには僧としての沢山な戒律があるが、一般の方々の場合は十善戒がある。殺生をしない、泥棒をしない、悪口を言わない、二枚舌を使わない、真実に反してうわべだけを飾ったことを言わない、ウソを言わない、貪(むさぼ)らない、腹を立てない、道ならぬ男女の交わりをしない、間違った見解をしない等々である。

これらを徹底しようとすると、どうしても信心を専らにし悟りの境地に近づかなければならない。千虚一実に如かずと言うが、千の偽りごとよりは一つの事実が勝るということで、ただ頭の中で並べたような教えや道徳は、いくら結構なことであっても一つも実(み)がならない。これには三番目の忍辱が必要になってくる。これは我慢することで、人間生活はどこかで己に克つ、苦しいことを我慢していく力がないと駄目である。四番目は精進である。精出して努力することを言う。何処でも刻苦精励なくして物事が成功することはない。五番目は禅定、これは坐禅を組んで精神を一点に集中させ、雑念を退けて忘我の境地に入ることである。もう何もないという境地である。最後は智慧、これを般若という。一切の妄想の世界をすぱっと断ち切って、仏心の本領を知ることである。以上のことをしっかりと身につければ、我々は本来仏であり、すでに救われているのだと確信出来る。これが悟りなのである。

 

 

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