さて終活の中でも、お墓をどうするかは重要な問題である。伝統に従えばどこかのお寺にお墓を求めて、そこに眠ると言うことなのだが、少子化や家族形態の変化で従来のやり方で良いのだろうか考えてしまう。近年樹木葬が人気となっている。もう一方散骨というのもある。最近義理の兄が亡くなり、エンディングノートが出てきた。それに依れば、娘二人とも嫁いで姓も変わり、残された家内もやがては死んで行くのだから、墓を作っても守る者が居なければどうしようもない。そこで、近くの川に流して欲しいと書いてあった。ところがお墓のことはそれで良いとしても、今すぐ川に流してお仕舞いというわけには行かない。姉の気持ちもあるので当分は新たに買った仏壇の下に納めた。四十九日の忌明けも済んで、お骨になったお父さんもいつまでもこれでは安らぐまいと、弟がお寺さんだから当分預かって!と言うことで、位牌壇の下に仮安置した。この例でも解るように樹木葬と散骨は一見同じように見えるが違う。散骨では残された者が、何を拝んで亡くなった人と向き合えば良いのか分からなくなってしまう。その点、樹木葬の場合は墓標に代わる樹木という縁(よすが)があるので、従来の葬送と大きくかけ離れていない。
ところで何故これほどまで日本人はお骨に対し執着するのだろうか。ブータンへ旅行したとき、お寺の門前の土産物屋さんに頭蓋骨がお金入れに使われていたり、大腿骨が笛として売られていたりと、我々には驚くことばかりだった。チベットでは鳥葬と言って、死骸を山に持って行って、ハゲタカなどの鳥に食べて貰うという風習があるそうだ。これなどは我々日本人の感覚で言うと、まあ何と酷いことをするものだと思ってしまう。また外国ではお骨を灰にするのが一般的のようで、火葬場に骨を砕く装置がある。鉄の玉が入っていて、それがゴロゴロ回り、細かくパウダー状にする。またミキサーのような装置で粉砕してしまうところもある。スエーデンや韓国の一部では、焼くのとは違い、遺体を液体窒素で冷却して灰のように細かくするフリーズドライ葬というのもあるという。それに比べると日本ではお骨に対する考え方はまるっきり違う。葬儀がすんで焼き場に行き、更に懇ろにお経を詠み、いよいよ火が付けられ、ブオッ!と言う音を聞くときは、自分が焼かれるような嫌な気持ちになる。焼き場の係の人が焼き上がり具合にまで細やかな神経を使い、職人気質を発揮する国は他にはない。頭蓋骨の丸みはしっかり残らないといけないし、特にのどぼとけは大切で、係の人は皆に納得して貰うために、細かく体の部位について説明してくれる。中にはのどぼとけは持ち帰り保管する遺族もあるという。お骨の箸渡しも重要な儀式で、ともかくお骨に対する執着は相当なものである。今でも戦争のため南方で亡くなられた方々の遺骨を収集する活動をしている人は沢山おられる。お骨が知らない異国で埋まっているのは可哀想だと思うことも、日本人らしい執着である。お骨は死後その人の核心を表すものだという考えである。
またお骨の保管についてだが、お墓の中で骨壺から出すのか、骨壺のまま保管するのか、これも一つの問題である。人間は地水火風の四大が組み合わされて生きていたのだが、死ぬと四大分離し、それぞれ元あったところへ戻る。地方のお墓は中が土になっているので、骨壺から出して地面にそのまま置き、長い年月のすえ土に還る。一方都会の場合は、墓の中がコンクリートで固められている場合が多いので、骨壺のまま置くようである。ところが、長い年月を経るうち、中が骨壺で一杯になり、次ぎに置く場所がなくなってしまう。それが嫌で、土に戻して欲しいと言うことで樹木葬を選ぶということもあるようだ。 |