アリストテレスの定義によれば、人間は何より知ることを欲する動物だという。それが文明をここまで導いてきたといえるのだが、しかしいくら知りたくとも知ることができない領域はどうしてもある。それでも知りたいとなると、あとは宗教的な,神がかり的方法になる。例えばこういうことがある。有名な建築家が新しい建物を建てるとき、拝み屋さん的なところへ行く。「今度はこういう新しい建物を設計することになりました」と言うと、お告げが下がって、「入り口は三階にせよ」とか、ぱっと出てくる。そのイメージを建築学的に具体化させると、ものすごい面白い建築が出来る。自然科学的発想での作業では,とほうもないひらめきは出にくいのだが、お告げを下して貰うと誠に良い結果が出ることがある。お告げの通りに建築したというと,何か変に聞こえるが、一つのイメージを貰って,それに自然科学的な能力をぶち当てると、面白いものができるというわけである。また政治家が神さんのお告げを聞き、それをプラス方向に意味を持たせ、政治的知識の体系にぶつけてみると、妙案が出てきたりすることがある。ただしここで問題なのは、下手な人はイメージを貰っているのではなく、正しいファクトを貰ったと思ってしまう。拝み屋さんに入り口は三階にせよと言われると、一番大きな玄関を、どうしても三階に作らなければいけないと思う。右の方に災いがあると言われたとき、右というのはどういうイメージを持っているのかと考えるのではなく、自分の右にいる奴がお金を盗むに違いないというふうに、ぱっとファクトに結びつける。こうなると迷信になる。人間は弱いものだから、あの人は神様だとか、あの人の言うことは絶対間違いないとか言うものを作り上げていって仕舞うのである。
先ほどの建築家の例でも、三階に入り口を作れと言われて素晴らしい建築を作ったとすると、そのお告げは本物だと言うことになるが、それは建築家が偉いからで、言う方は勝手なことを言ってるのであって、それを本物にしてみせるか、偽物にするかは、本人の問題である。我々が普通に生きていて、そこそこ旨くやっているときは、そんな能力は必要としない。ところが極端な不幸に見舞われたり、予期せぬ事態に追い込まれたりすると、人間は弱いものだから、何か自分の意思を越えたものに頼りたくなる。そういう時に拝み屋さんへ行って当たったりすると,完全にいかれてしまう。現代のように自然科学が発達して馬鹿げた宗教は減ってきたが、一種の補償作用で、しぶとく残っていくと言うのも現実である。
人間というのは、結局とことん信じたいことだけを信じる動物なのである。例えば新興宗教の教祖などは、みんな明確な表現はしない。曖昧な表現で曖昧なことを予言する。解釈によって当たったとも思えるし、どちらともとれる。その場合、信じたいと思っている人は、常に当たった方向に解釈しようとするものである。一端そちらに流れ出すと、もう、止めどもなくいってしまう。
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