『‥‥ついに宇宙船は月軌道に乗った。目の前に驚くばかり輝きを持った月の姿が現れた。月には大気がないから、夜と昼の間にある薄明かりはない。くっきりと一線で分かれる。いよいよ月面に降下を開始、コンピュータの操作と計器の読みに全神経を集中し、高度計の読みがどんどんゼロに近づいていく。すると突然計器盤のランプが点灯、月着陸船の脚の先端が接触した合図である。ドスンという衝撃とともに、着陸が完了した。月の色は鉛色で、まるで粘土細工のようだ。だが次々に変わってゆき、褐色になり黄褐色、白色になる。クレーターや谷は一つ一つの造作が大きく、日本列島を横にしたぐらい大きいものはいくらでもある。また、富士山より大きな山やグランドキャニオンより大きな谷もある。そこには生命のかけらもなく、生命の色である青や緑もない。動くものは一切なく、全くの無言、静(せい)謐(ひつ)である。生命という観点からは全くの無、人を身震いさせるほど荒涼索漠としている。しかしそれにもかかわらず、人を打ちのめすような荘厳さ、美しさがある。アーウィンは口もきけずその光景に見入った。ここには神がいると感じた。自分のすぐそばに、手をのばせば神の顔に手を触れることが出来るだろうと思われるくらい近くにそれを感じた。
月面での作業は分刻みのスケジュールで、次から次へと仕事を片づけていく。様々な実験装置の設置、地熱測定装置、太陽風観測装置の組み立て、原子力発電装置付き通信機と観測装置を結合して、地球にデータを送信させる。地熱測定のため、探針を地下約一メートルにドリルで穴を開け埋め込む。又別にドリルで地下三メートルまで掘り下げて、円筒形の地層のサンプルを採取、ダブダブの宇宙服を着て、六分の一Gという重力の下での作業は意外に手間取る。次の日はルナ・ローバーに乗って岩石採取、基地に戻って化学実験、次の日もほぼ目一杯働かされる。その合間に全米の視聴者に月世界とはいかなる世界かを知らせる番組を作る。例えば走り幅跳びをして見せたり、あるいは月面のガリレオ実験と称して、羽毛と鋼鉄のハンマーを同時に落として、ぴたり同時に落ちるのを見せたりと、それやこれやでほとんど暇がない。合間に地球を見上げることが出来るのだが、これがなかなか容易ではない。何かにつかまって倒れないようにしながら、できる限りそっくり返って上を見るとやっと地球が見える。それは丁度ガラスで作られたマーブルくらいの大きさで、暗黒の中点高く、美しく暖かみをもって、生きた物体として見える。手を伸ばせば触れるくらいの近さに感じる。指先でちょっとつまんだら、壊れてバラバラの破片になってしまうほどの弱々しさで、宇宙の暗黒の中の小さな青い宝石、それが地球だ。
自分がここに生きていて、はるかかなたに地球がポツンと生きている。自分の生命と地球の生命が細い糸でつながれていて、それはいつ切れてしまうかも知れない。どちらも弱い存在、かくも無力で弱い存在が宇宙の中で生きていること、これこそ神の恩寵だと何の説明もなしに実感できる。それまで人並み程度の信仰と、同時に人並み程度の懐疑を持っていた。しかし宇宙から地球を見ることを通してあらゆる懐疑が吹き飛んだ。神はそこにいる。それは稲妻に打たれたような一瞬のうちに神の認識が得られたというのではなく、直接的な実感、私がここにいて、君がそこにいる、それと同じなのである。すぐそこにいるから語りかければすぐに答えてくれる。君と同じように神と語りあえる。と言っても神の姿を見たわけではなく、神の声を聞いたわけでもない。しかし私のそばに生きた神がいるのがわかる。
|