彼女はアポロ計画以前から宇宙飛行士の記念切手が出ると、それを大量に購入して、封筒に貼り、宇宙飛行士のサインを貰うのを常としていた。ときとすると、一人に百枚もサインさせるので仲間の顰蹙をかっていた。サイン入り封筒の記念切手には凄まじい値段が付くのだ。やがて他の収集家もそれに乗ずるようになった。そのうちサインに謝礼が出るようになった。アーウィンたちが持参した六百五十通のうち大半は、自分たちが記念ないし、将来の値上がりを見越して保存しておくためのものだった。ところが、うち百通は西ドイツの切手業者から一人八千ドルの謝礼金で依頼された。三人はそれをアポロ計画が終わるまで市場に出さないという約束のもとに引き受けたのだが、実際にはそれから間もなく、一通千五百ドルで売りに出されてしまった。これがマスコミに報道され、やがて事の全貌が明るみに出て、一大スキャンダルになった。
アポロ15号ばかりでなく、過去にさかのぼって似たような話が掘り起こされ、ついに上院に調査委員会が出来るところまでいった。切手の他に、あるメダル会社が、宇宙飛行士に百枚の英ポンド銀貨を月に持参して貰い、うち五十枚は謝礼に与え、五十枚は返して貰い、その五十枚を鋳造し直して実に十三万枚のメダルを作って儲けるという事件もあった。スコットはこのスキャンダルの中心人物になってしまい、大将になるべきキャリアを棒に振ってしまったのである。アーウィンもその共犯者になったわけだが、既に宗教者になっていた彼は、事件の全貌を直ぐに喋ってしまい、自分のお説教の中で、自分はいかに人間として弱いところがあるか、だからこそいかに神の助けを必要としているかの例証として述べて、むしろ聴衆の共感を得ていた。しかし考えてみると、彼は月の上で、神の目の前で切手に消印を押していたことになるわけで、そのとき神はアーウィンに何も語りかけなかったのだろうかと言う疑問がわく。
さて宇宙飛行士の中でアーウィンが一番極端な変わりかたをしたのだが、宇宙飛行士のその後を見ると、ビジネス界に入った人が大半で、政治家になった人もあり、むしろ世俗的欲望を追求している人の方が多いように見受けられる。ほんとうに宇宙体験は、それほど強い精神的インパクトを持ったのだろうか。アーウィンはもともと宗教的だったのであって、別に宇宙体験で変わったわけではないという人もいる。アーウィンに言わせると、自分より宗教的な宇宙飛行士は沢山いた。スコットもボーグやルースマンもそうだ。アポロ11号で月に最初に行ったオルドリンなどは長老派教会の長老だった。明らかに自分より信仰心が篤かった。しかし地上でどれだけ宗教的だったかと言うことと変わりなく、宇宙飛行士たちはみな宇宙体験で大きな精神的影響を受けて、内面的に変わった。変わったけれども自分でそれを認めないようとしない人々も何人かいる。又大多数は自分が精神的に変わったことを、自分のように進んで口にしたがらないだけである。それはそういうことをオープンに口にすると、自分の宇宙飛行士としての将来にマイナスだと思っているからだ。あいつはちょっとおかしな奴だから、もう飛ばすのはやめよう、などと上層部に思われたくないからなのだ。
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