そのとき突然、巨大なパイプオルガンが鳴り出した。圧倒的な量感を持って鳴るバッハの「大フーガ」が、巨大な音響空間に共鳴し、まるで自分がオルガンの中に入っているみたいだった。突然なぜか涙が出てきて、とめどもなく流れ出た。悲しくて泣いたのではない。ただ自然だった。日常性を越えたところで起きた突然の感動である。今でもこの不思議な体験は心の中にずっと残っている。世の中には行ってみないとわからないもの、自分の肉眼で見ないとわからないもの、自分がその空間に身を置いてみないとわからないものが沢山あるのだという思いを深くした。
自分の自分に対する情報伝達、リアルな現実を自分の感覚を通して脳の中に取り込み、正しく位置づけること。四六時中はき出される膨大な情報の中から、自分にとって大切と思う事柄だけを取捨選択し取り込んでいく。そうすることによって意識レベルをワンランク上に押し上げる。そういう意味において、旅は自己教育であり、自己学習である。旅ほど自己形成に役立ったことはないのである。
「一粒の麦もし死なずば、ただ一粒にてありなん。もし死なば多くの実を結ぶべし」イエスが自分の死を予見していった言葉である。自分が十字架にかかって死ねば、それによって多くの人を救うことができる。生きることを求めるより、よく死ぬことを求めるほうが正しいと言うことである。キリスト教の強みはそこにあった。死を恐れず殉教する者がつづいた。キリスト教が三百年にもわたる迫害に耐え抜き、ついにローマの国教になることができたのもこの強さがあったからである。新大陸に入った伝道僧たちは、異教の地で布教するにあたって迫害を受け、殉教するかもしれないことは覚悟の上であった。むしろ願うところで、殉教は聖なる行為であり、殉教者は昇天し神から祝福される。殺されても殺されても殉教志願の伝道僧は後につづく。このような布教の先頭に立ったのがイエズス会だった。映画「ミッション」に描かれているように、イグアスの滝上流のジャングルで未開の原住民に捕らえられ、十字架にはりつけにされ、イグアスの滝上から落とされる衝撃的場面がある。またイエズス会伝道村にスペイン・ポルトガル連合軍が攻めてきたとき、連合軍が火矢を射かける中、一同教会の前に集まってミサを行った。教会や部落に火がつく。その中で静かにミサを終えた主人公たちは金属製の装飾のほどこされた十字架、モンストランス(聖体顕示台)を前に捧げ持って歩き出す。そのまま銃を構える連合軍に向かって真正面に歩いていく。一斉に射撃が始まりバタバタ倒れる。残った者はなおひるまず歩き続ける。感動的場面であるが、信者でないものにはいらだたしいく、見てはいられない場面である。何故逃げないのか、わざわざ死ぬことはないではないか。 |