中には金銀のはくなどが所々に付いている木を売る者もあり、尋ねれば古寺の佛を盗み、堂の物の具をやぶりとりたりと言う。仁和寺、慈尊院の大蔵卿法印という人は、死者の首に阿字を書いて、京の中、道の辺にある頭、四万二千三百余りになったという。また元暦二年、大地震があり、山は崩れ川を埋め、土は裂けて水沸き上がり、都のほとりの堂舎廟塔、一つとして被害を受けぬものはなかった。うち続く天変地異に、地獄を見る思いだったに違いない。
さてこのような方丈記の一節を読んで気づいたのは、東日本大震災と津波による未曾有の災害である。福島第一原発の収束には数十年かかると言われている。日本は戦後の混乱期を経て、経済は成長し、我々の生活も豊かになった。そんな時思いもかけぬ大災害に見舞われたのである。この危機の時代における基本的な生き方の源泉として、方丈記が改めて注目されるようになった。 宗教学者の山折哲雄氏の文章を引用させて頂く。『鴨長明が住んでいたという方丈の小庵は、いま下鴨神社の境内に再現されている。そこで実際に鴨長明が住んでいた場所を訪ねてみた。地下鉄の終点六地蔵から日野の里より二,三百メートル山に登ると、「方丈石」という石碑が建っている。そこが方丈庵の建っていた場所で、本当に狭いところである。じっとしていても、じわ~と湿気で汗が出てくる。よくもこんなところで我慢して住んでいたものだと思う。すっと脇を見ると渓流の跡があった。この水があったから生活できたのである。水が流れている清涼感があって、困難な生活を耐えることが出来たのである。鴨長明は隠遁生活に入った後も、鎌倉まで旅をして、歌人として有名だった三代将軍源実朝に会い、歌問答をしている。好奇心旺盛で長旅もいとわない。新しいものは何でも知っておこうという人であった。同様に天変地異に対する関心も深く、災害があると現場に行って子細に被害状況を写し取るジャーナリスト的目を持っていた。そういう二面性のある人だった。鴨長明にはほかに、「発心集」という隠者の説話集がある。当時のお坊さんのライフヒストリーを、長明の見識で集めたもので、高僧と知られながらその地位を捨て、一人の生き方を追求した人物について記述している。一人目は玄賓僧都(げんびそうず)、興福寺で修行していたが、あるときフッと姿を消した。十何年後、ある弟子が北陸を旅したとき、辺境の地で乞食坊主に会う。それが玄賓だった。次は平等供奉(びようどうぐぶ)、こちらは比叡山で高僧として尊ばれていたのだが、やっぱりス~ッと姿を消してしまう。十年か二十年して、四国の伊予へ下った弟子が、乞食坊主が庵の生活をしているという噂を聞いて、呼び寄せてみると、それが師匠だったという話。もう一人、増賀上人、この人も名声を嫌い、奈良の多武峰の山の中で姿をくらまし、乞食生活をしている。そういう人物を発心集の冒頭で紹介しているのだが、比叡山や高野山で修行や学問を積み、人々に尊敬されるような生活を拒否した人間だと分かる。こうした隠者の中の隠者こそ、長明が憧れた聖(ひじり)の生き方なのである。』 |