無名の人生
 
 

 かつて日本人の命がテロリストに狙われたとき、人間の命は地球より重いといった政治家がいた。たしかに人間の命ほど尊いものは外にないのだが、しかしこの考え方は太古の昔からずっと変わらずそうだったのかというと、必ずしもそうではなく、時代によってずいぶん違うもののようである。男の平均寿命が八十歳と言うが、いつの間にか私も余命八年になってしまった。まだ結構元気で現役の師家として雲水と早朝より動き回っている。突然癌の宣告でも受けたら別だが、この調子ならまだまだやれそうだ。しかし周りを見渡すと、友は死んでいくし、お喋りする相手も少なくなって、新しいこともなくなり、好奇心が湧き感動が生まれることも減ってきた。結局これ以上長生きしても何も変わらないような気がする。これが死というものなのかも知れない。

 さて江戸時代の人間は、今よりずっと簡単に生に執着することもなく死んでいった。当時の文献を読んでも、本当にあっさり死んでいる。既に生きているときから覚悟が決まっているようだ。そもそも江戸時代の平均寿命が今と比べてずいぶん短かったと言うこともある。ではあっさり死んで何事もなく死を受け入れていた江戸期の人と、そうでない今の人と、どこがどう違うのだろうか。武士は己の名誉のために腹を切る。武士たるものかくあるべしと言う規範があって、そういう世界を横目に見ていたから、庶民もわりと簡単に死ねたのかも知れない。中世ヨーロッパでも、死を控えたときには決められた作法に従って従容として死んだ。ヨーロッパの場合は天国というものが信じられているので、そういうしきたりも成り立ったのかも知れない。では江戸の庶民は単に武士を真似ただけなのか。そうとも思えない。言えることは、あまり自己執着せず、自分を過大評価しなかったのではないだろうか。「俺なんか大した人間じゃない」。それに比べて現代の人間は、威張って格好を付け、政治家もタレントも一般人も、自分の個性を過大評価し過ぎている気がする。昔の人はそれほど自分にこだわらず、自分は平凡な人間だと考えていた。特に女性などは公衆の面前にしゃしゃり出るなど気恥ずかしいという人が多かった。しかし今は誰もがスターやモデルのように自己顕示に喜びを感じ、センターステージに立ちたがる。人はみな自己愛を持っているからなのだが、昔の人は今よりあっさりしていて、自己愛が現代人ほど強くなかったようだ。しかし自己愛を持たないようにするのもなかなか難しいことである。西郷隆盛などは「己を愛するは善からぬことの第一なり」と言っているから、少なくとも自己愛の抑制に努めて生涯を終えた人なのである。また江戸中期の小西来山という文人は「来山は生まれた咎で死ぬるなり、それでうらみも何もかもなし」という辞世の句を遺している。来山は生まれた罪で死ぬんですよ、それで恨みも何もありません。生まれてこなければ死なないのだから、死ぬのは当たり前で、死にたくないなどと思い悩むことはないと言うのである。太宰治は「生まれて、すみません」と記している。やや自虐的にも受け取れるが、自分に対する慎ましさである。この感覚はある時代までは人間みんな持っていた。小さな女の子がひとりぼっちで世界に放り出されたような、保護してくれるものがない、誰も護ってくれないところから来る根源的な寂しさ、本来人間は皆そういう存在なのである。危険にさらされることも、寂しいことも、それは誰だって望んでいるわけではない。そこから抜け出そうと人と繋がり、家族をこしらえ、社会的な交わりが生まれる。文明とは何かと言えば、生がむき出しになった寄る辺ない存在を、束の間、何とか救い出そうとする仕組みだと言える。しかし原点は寂しさを抱えた自分があると言うことを自覚しておいたほうがいい。芭蕉は「汝が性(さが)のつたなきをなけ」と言っている。旅の途次、うち捨てられ赤子が泣き叫んでいた。しかし芭蕉はそれを救ってやろうとしなかった。「赤ん坊よ、お前さんは自分の不運な境遇に泣くしかないのだよ。だけど、不運はお前さんだけじゃない、世間のみんなもそう、私だってそうなのだよ」。この赤ん坊に象徴されるように、寄る辺ない生命がこの世界に露出されている姿こそ、我々の原点なのである。 

 寂しい話ばかりで恐縮だが、私とあなたがある密閉空間にいるとする。エレベーターが故障して緊急停止した。そこに長時間放置される状況を考えるといい。そこに存在する空気は限りがあるから、私が酸素を吸うとあなたは吸う分が減らされる。一人の人間が生きていくと言うことは、必ず他者の生を侵害するのである。親しい間柄でも、日頃の付き合いの中で話しかけたり冗談を言ったりするうちにも、相手に何らかの心理的プレッシャーを与え傷つけたりする。自分の存在それ自体が他者を阻害する。もっと徹底すれば、この世に生命が存在すること自体が、この世の間違いなのだとも言える。つまりこの世界と生命とは、根本的に適合しないもので、この世に命があることが非常に危なっかしい不自然なあり方なのである。これが人間の生の根源的認識なのである。

 

 

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