第十八回  齋  座 (さいざ)

十一時に雲板がば〜んば〜んと鳴ると齋座である。これを合図に雲水は堂内から直日を先頭に数珠繋ぎになって食堂へやって来る。既に両側に飯台が並べられ飯台看の者が下座に待機している。全員が左右に分かれて坐を組むと、すぐに雲板が打ち上げられ、同時に看頭が般若心経を唱えはじめる。続いて全員が唱和するその朗々たる響きは一大男性合唱で、規律正しい所作と共に実に荘厳な雰囲気そのものである。直ちに飯台看が飯器を真ん中に挟んで前後に別れ手際よく給仕にかかる。よそってもらった者は適量になったら合掌の手を擦って合図をする。次に汁器、菜器の順で進み、決められたお経の間に全ての作業を終了させると、最後に飯台看の引き手の者が看頭に低頭して給仕は終わる。
 一般的に食事は家族の団欒の時であり、その日あったことなど楽しい会話をしながらというのが普通だろうが、僧堂での食事は重要な修行の一つであり、特に静寂を旨とする。一度に何十人が食べていてもコトリと、物音一つさせてはならない。こういう話で必ず言われるのが沢庵を音をたてずに食べるということで、大抵の人は「それは無理です。沢庵はかめば必ず音がするに決まっています。」と言う。確かにその通りで、あの沢庵を全く無音で食べるなどという神業は誰だって出来っこない。しかしだからといって傍若無人にポリポリやっではいけない のである。ひとたび沢庵を口の中に放りこんだら神経を尖らして口の中でもぐもぐとやる。すると殆ど音も発てずに食べれるようになるのだ。 初めての人はよく仕方がないから飲み込んでしまいましたなどと、聞いただけでも消化の悪くなるようなことを言うが、気持の問題である。その他にもお碗や箸の上げ下げなど慎重に扱わなければいけない。しかも相当なスピードで食べるのだ。よくこれで胃が悪くならないものだと思うが、そんな心配は無用で、私も長年のうちにこの習慣がすっかり身についてしまった。今でも食事の速さといったらそれは猛烈なもので、一緒に食べている人が目を丸くする。あまり品の良いものではないと思い、この悪習を何とか直そうと努力してみるのだがそう簡単に直 せるものではない。
 ところで食前には五観文(ごかんもん)といって食事の心構えを五ヶ条にしたものを唱えてから生飯(さば)″を取る。これは自分たちが頂く前にもろもろの生きとし生けるものに施しをする意味があり、うちでは集めておいて屋根に放り上げ小鳥たちの餌にしている。
 食事の内容は朝は米と麦を半々の割合にしたお粥に沢庵二切れ、昼は米麦半々のご飯に味噌汁、沢庵二切れである。こんな食事では途端に栄養失調になって病気になるかといえばそんなことは決してなく、皆血色もよく丸々と太っている。近頃糖尿病の人が多いと聞くが、大体栄養を取りすぎるのだ。昔は腹八分に医者いらずと言ったが今は腹五分で十分だ。有り難く尊く頂く食事は命の源である。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 

 
 
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