第二十三回  点 心(てんじん)

 托鉢に出た折り信者さんのお宅でお斎(おとき)の招待がある。これを『点心』と言う。平生は天井が写るほど薄いお粥や押し麦がどさっと入ったご飯、ただ味噌を溶いただけの汁に野菜の味噌汁、そして沢庵だけという極めて質素な食事だから、この点心は何よりのご馳走である。先輩雲水に連れられて上麻生という所へ托鉢に出かけた時、そこで初めて点心を頂いた。玄関には既に盥に湯が張られ傍らには雑巾が用 意してある。到着を告げると、高単さんから順次草鞋を脱ぎ足を洗う。新到は最後に手早く済ませ雑巾を奇麗に濯いで、水は生け垣などの根に掛けて片付ける。座敷には当家の主人が正装で待ち構えている。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

お礼を言わなければならないのはこちら側ではないのかと思うのだが、全員が揃ったところで互いに礼を交わし、先方からは歓迎の挨拶がある。次は仏壇に全員で懇ろにお経を誦む。僧堂は朝が早いので、昼食は通 常十時半である。従って昼にはまだ早い時刻に到着するため当家では大忙しである。我々の頃は当日の早朝」托鉢の現場についてからいきなり依頼していたので、引き受けたお宅は大慌てで支度する羽目になる。それでも大抵の家では気持ちよく引き受けてくれたが、今思うと何と迷惑なことだったかと思う。これも僧堂の雲水を外護するという気風が長い伝統としてその地域に根付いていたお陰である。付近を托鉢して いると当家のお嫁さんが自転車で買い物に駆けずり回っている姿なども見受けられ、申し訳なさでいっぱいだった。現在は二・三日前にあらかじめ電話などで先方の都合を確かめ、到着時刻なども言ってからお邪魔するシステムになったので、ばたばた慌てふためくこともなくなった。
 さていよいよ食事となるわけだが、田舎のことでそんなに贅沢なご馳走というわけではなかったが心の籠もった手作りのおかずの数々、目も眩むような真っ白なご飯がお櫃いっぱいに用意されていた。出されたものは全て頂くのが原則だから、ご飯はどんぶりのような茶碗に何倍もお代わりし、魚も骨まで噛み砕いて飲み込んだ。ご飯が喉の所まで詰まって屈むのも苦しいほど だったが、帰る頃にはもうお腹が空いていた。出立から帰山までほぼ九一日歩いているわけだからその距離は相当なもので、エネルギーの消耗も激しく、だから腹一杯食べても丁度良いのである。それも矢張り若さと言うものである。
 点心をご提供いただく家(点心場)はあらかじめ登録されており、お宅によっては親子何代にも渡ってお世話して下さった。私なども僧堂在錫中はどれ程多くの方々からご厚情を頂いたか知れない。在家信者さん方のこういう陰の支えがあってこそ挫けずに続けられるのが雲水修行なのである。

 
 
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