第二十五回  昏 鐘

 関山嶺の頂にわずかに残照が残る夕暮れ、頃合を見計らって観音経一巻を大声を張り上げてよみながら鐘を撞く。殿司(でんす)がその役目である。通常僧堂ではその頃、大抵薬石を随意にとっている最中なので、知らぬ間に終わってしまうが、大接心の時は昏鐘に合わせて禅堂内は一坐る。静まりかえった境内に朗々と響き渡るお経の声、殷々と響く大鐘の音、いよいよこれから夜の坐禅が始まるという緊張感が高 まってくる。それはまたこの後すぐやってくる参禅の予告でもあり、公案で四苦八苦している時などは胸苦しくなる瞬間でもある。昏鐘は単なる夕暮れの鐘という意味だけでなく、このように日々修行上の気持ちの切り替え時でもある。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 近頃は自動鐘撞き機なる便利なものが出来て、一般の寺では時間になればほっといても機械がちゃんと鐘を撞くのだそうだ。檀用や雑事に忙殺される和尚さん方では毎日決まった時間に鐘を撞くというのは至難の業であるから、確かに便利になったものだが、ちょっと味気ない気もする。お寺によっては和尚さんに代わって檀家の人が鐘を撞きにやって来ると言うような話も聞いたことがある。いずれにせよ夕暮れの鐘の音は古くから童謡などにも歌われているように、単なる時を告げるという意味合いだけではなく心に染みて良いものである。
 ところが最近都会ではこの鐘の音がうるさいと苦情が来るらしい。都市によっては早朝の鐘は撞いてはいけないと言う規制まであるようで、こんな話を聞くにつけ、なんだか殺伐とした気持ちになってくる。私はかって十代の頃、吉野山中でどこからか聞こえてくる夕暮れの鐘の音を開き、いつか屹度自分もこういう世界で生きてみたいと心に誓った覚えがある。同じ鐘の音でも聞く者によってはこうも違ってくるのである。
 又重罪を犯した男が刑務所近くの寺から聞こえてくる夕暮れの鐘の音を聞き、犯した罪を一つ一つ白状していったという話を聞いたことがある。刑事さんの厳しい追及には抵抗できても、心に響く鐘の音には逆らうことは出来なかったのであろう。大鐘の音は万言に勝る説得力を持っている証である。
 江戸時代の有名な禅僧、自隠禅師は修行中、それまで真っ暗闇だった心境が大鐘の音を聞いて一変し、お悟りを開かれたと言うから、これまでどれ程沢山の人が大鐘によって心に大きな影響を受けたかが解る。
  公案にも「世界はこんなに広いのに大鐘が鳴ると何故皆袈裟を掛け法堂へ出頭するのか?」 というのがある。我々修行者は鐘の音一つでも、 そこに大いなる疑問を持ち、室内で老師からぎゅうぎゅうのめにあわされ、七転八倒するのであ る。徒疎かに鐘の声も聞けぬと言う訳だ。

 
 
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