肝心なのは自分が老師に成りきることで、呼吸を合わせ、気に入って頂くことが一番である。しかし我々のような戦後教育を受けた者からすると、明治生まれでその上小さいときから小僧でしっかり鍛え上げられてきた老師と一つに成
るというのは至難の業である。特に私などはろくな小僧生活も経験していないから、気に入られるわけがない。高単さんもその辺はよく承知して、だから私が初めて隠侍を命ぜられたのは、四年の修行が済んだ頃であった。
老師は大変、来客の多い方で、ひっきりなしにやって来た。何事も拙速を尊ぶ″がもっとうで、兎も角もたもたしているのを一番嫌われた。だから客にお薄を出すにしても、大切なのはタイミングで、礼儀作法は二の次であった。そこで茶碗にお茶を放り込むと、乱暴に引っかき回してもって行くことになる。だから勢い余って茶筅の先が折れてお茶の中に紛れ込み、客が お茶を飲み込んで口の端しから遠慮がちに出してそっと袂に忍ばせる光景などはちょくちょくであった。
また墨跡も良く書かれた。そこでまずは大量の墨摺りである。今なら合わせ砥で良く研いでから摺るのだが、当時はそんな知識もなくただ力任せに摺った。ある時どうしても間に合わなくなり、チュウブ入りの出来合いの墨をそっと混ぜて持参した。ところが良く攪拌しなかったものだから、老師が硯に筆を入れられると、どろどろの固まりが筆について持ち上がった。「濃く摺るにも程があるぞ!」と叱られたときには本当に肝を冷やした。結局真実はばれずに 済みほっと胸を撫で下ろしたものである。また色紙の印鑑押しも一仕事で、どんどん書かれるその傍らでまるでベルトコンベアー式に印を押して押して押しまくる。時々うっかり反対に押してしまい、目の前に老師が居られるわけだから、これをどう隠したら良いか困り果てたりと、今となっては皆懐かしい思い出ばかりである。この時徹底的に人に仕えること、滅私奉公の大切さを思い知らされた。今では私が隠侍を使う 立場になったのだが、使って行く方がもっと大変だと亭っことが解った。老師は日常の悉くに 雲水を鍛えるという事に徹底して居られたのである。
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