最初、知客役を命ぜられたときは、解っているようで解っていないもので、スカタンをやらかしては老師からこてんぱんに叱られたものである。誰でもそうで、物事は実地に経験を積んで始めて身に付くのである。側から眺めているだけでは、知っているようで解っていない。
人の上に立つことの難しさを始めて知る。これらは言ってみれば直接修行そのものではないが、後、僧堂を引いて自分が一ケ寺の住職になるとこの経験が皆生きてくる。
特に春の入門時期になると、知客は俄然忙しくなる。殆ど僧堂を知らない者が入門してくるわけで、直接の担当は殿司の者がやるが、細かな指示は知客がやることになる。入門者は極度に緊張してやって来る。いきなり怒鳴りつけたり厳しく対処するとびびってしまい、結果的に良いことにはならない。さりとてゆるゆるでは、逆に僧堂が舐められてしまい、これもまた工合が悪い。その辺の緩急よろしきを得た対処は、知客を何度も経験して始めて得られる。
毎朝の朝課・坐禅・喚鍾・雑巾がけ・粥座が終わると隠寮で老師とその日一日の行事や作業の打ち合わせをする。老師は日中境内や園頭、山の辺りを見回り、気付いた点を指摘し、作業の指示をされることもあるので気が抜けない。
うちでは知客と副司を一人がやるので、寺の会計も担当となり、そのほか来客の対応、檀家とのやり取りなど、仕事は多岐に亘り、目が回るほど忙しい。そう言う仕事もしつつ自分自身の修行もしっかりやっていかなければならないので、頭の切り替えが旨く出来ないといけない。修行もだんだん進んでくると、一則の公案に語を付ける様になる。懐に句集をしのばせ、ちょっとの問も惜しんで、句集とにらめっこをしたものである。
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