第六十四回 喚鐘 
臨済の修行では坐禅が最も重要なことで、一般にも禅僧と言えば坐禅を組み、半眼瞑想する姿がイメージされる。しかしただ坐禅していればそれで良いのかというとそうではなく、坐禅と喚鐘は必ずセットになっている。ここで言う喚鐘とは鐘そのものもさすが、参禅問答という意味でもある。雲水は入門すると直ぐ第一回目の喚鐘をうち老師の前に行くと、公案を与えられる。第一問目は、「隻手」(せきしゅ)か「自己」である。つまり片手とはなんぞや、自己とは何ぞやというのである。この答えを毎日朝晩一人一人老師の室内(参禅室)で提示し、正しいか間違いかを判定して貰う。前の者が終わると、老師は鈴を振って合図をするので、 その音を聞いたらすかさず次の雲水が鐘を二回打ち、間訊して室内に向かう。問答の様子は外部に漏れないよう離れた場所で行われるため、室内と喚鐘場は相当離れている。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

じゃじゃ降りの雨の時などは良く耳を澄ませ、振鈴の音を今か今かと待ち構え、神経を張り詰めていないとしくじり、喚鐘番の役位さんから、オイ!と叱られる。帰って行く者とこれから室内へ参じる者とが途中の廊下ですれ違う。いよいよこれから室内で老師と一対一で相対し、見解(けんげ)を述べ、善し悪しを判定して貰うので、その緊張感と言ったらない。特に師匠は大変厳しい方で、雷鳴の如き叱責がガンガン頭に降り注ぐということになる。だから見解で困り果てているときの鐘の音は、胸にぐさりと刺さる恨めしの鐘となる。
 さて五年十年と修行を積み重ねていくと、最初に公案をお辞儀をしたままの状態で全て述べ、頭を上げて見解を呈する。公案も、ものによると塗毒鼓何頁にも亘るという長文のものもあり、覚えるだけでも大変である。その後見解を呈するのだから、喚鐘場で待機している間中、繰り返し繰り返し頭の中で復習する。頭の悪い私などはこれで結構苦労した。また見解を呈し、良しとなれば次に語を付ける。これも一発で良しなら良いが、大抵はそんなことにはならない。
そこで多い時には七つも八つも暗記して、これまた立て板に水の如くべらべらとやる。だから喚鐘場で待っているときは、頭の中はこれらのことがぐるぐる回っているのである。喚鐘はただの鐘なのだが、このように修行と深く関わっており、雲水にとっては特別な意味を持った鐘である。

新到の頃、喚鐘場で控えているとき、室内から良い見解だというしるしの竹蓖の音がバシバシと聞こえてくる。お先真っ暗、壁にぶち当たってにっちもさっちもいかない状態のときは、何とも情けなくなる。さりとて良い見解が突如として開けるわけでもなく、新到時代聞いたやるせない鐘の音は今でも耳に残っている。
一方竹蓖を貰った雲水のほうは、足取りも堂々として何処か誇らしげで、ど〜だい!と言っているように見えた。悲喜こもごも、新到の頃の喚鐘場の事はいろいろ胸に蘇ってくるものがある。



 
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