第六十三回 粥坐 
僧堂の食事は三食全て献立が決まっている。 朝食は必ず麦粥(但し一日と十五日は祝聖行事があり白粥)である。だから朝食を粥座という。
早朝より本堂での勤行があり、一端禅堂に戻って読経後、直ぐに雲版が打ち鳴らされ、食堂で粥座となる。全員着座するとお経が始まり、経中に飯台看が上座より順次孟鉢に粥を注いで行く。一杯目はそこそこ米粒が入っているが、二杯目になると、減った分だけ飯器に熱湯を注ぎ分量を水増しするから、米粒は数えるほどで、箸も使わず口へ流し込む。これを天井粥と言う。余りの薄さに天井が写るところからこのように言われる。質素この上ないものだが、真冬酷寒の季節は、冷えた体に熱い粥が胃袋に入り、五臓六腑に染み渡る。全部の血管が火照り体中が熱くなる。火を噴くほど熱い粥を音を立てずに口に流し込むわけで、これには些か技術が要る。いきなり口に流し込もうものなら火傷をする。さりとてふ〜ふ〜吹いて食べることなど絶対禁物である。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所
そこで箸で表面の冷えた部分を巧みにかき寄せ、口に流し込む。これが普通に出来 るようにならなければ雲水とは言えぬ。三黙堂と言い、禅堂・食堂・浴室は絶対に音を立ててはいけない場所なのである。一般家庭の食事からすると極めて質素で、こんな程度の食事で、日中の作務や托鉢がまともに出来るだろうかと思われるかも知れないが、確かに腹は減るが、さりとてぶっ倒れるなどと言うことはない。以前、シベリヤに三年半抑留され、酷寒の地で重労働をさせられた方から体験談を聞いたことがあるが、気力さえあれば決して死ぬことは無いと断言されていた。僧堂はそこまで過酷では無いが、修行を続けたいという気力は大切である。当時の体重は今より十五キロも痩せていたが、病気になることはなかった。
現代は飽食の時代と言われ、むしろ過食が問題になっているわけで、粗食こそ最も体に良いのである。これら一連の食事を、威儀粛々として、コトリとも音を立てずに、一糸乱れず食事する姿は、まさに仏道修行そのものであり、食事すること自体が仏作仏行なのである。世間ではたとえ豪華な食事をしていても、食事する姿が卑しい感じの人を見掛けることがある。 威儀即仏法と言う。僧堂修行は全て、この考えで貫かれているのである。


 
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