第六十二回  暫暇
 制間になり授業寺から暫暇書が知客寮にだされると、期間中(二月一日〜三月十四日)・(八月一日〜九月十四日)の間、僧堂を出て暫く授業寺の手伝いに帰ることができる。期間はその時々全体の人数・寮舎などで変わり、最大でも二週間、新人の場合は、一週間が限度である。遠方の者の場合は、行ったり来たりの日にちを入れると本当にゆっくり出来るのは数日と言うことになる。小僧の場合は授業寺に帰ると、朝の勤行・庭掃除・粥座の支度等々、息つく暇もないのだが、又違った雰囲気で、縛りから解放され、良い気分転換になった。尤も現在は雲水の大半が寺の息子で、師匠は父親というのが多いので、この場合の暫暇は、殆ど学生の休暇と同じで、羽を伸ばしてリラックス、多分ゴロゴロしているのだろうと察する。
 私も制間には暫暇をしたが、たった1人きりの小僧だったから、こうも忙しいのでは却って僧堂で決まった役目で、決まった仕事だけをしている方が楽ちんだなあ〜と思ったが、いつも高単から睨まれ監視されている僧堂に較べれば、どんなにほっとしたか知れない。とくに大変厳しい寮頭の下で仕えている場合は、この開放感は何にも代えがたかった。暫暇で英気を養い、パワーをつけて再び僧堂に戻り頑張ったものである。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所
 尺取り虫の屈するは伸びんが為なりというが、緊張と弛緩の程よい加減が、この制間の暫暇である。僧堂によると原則暫暇は無しと言うところもあると聞くが、それぞれ利点もあるので善し悪しは一口に言えないが、まあたまの骨休めと気分転換は良いのではないかと思う。また大寺の小僧などでは、遠諱法要や斎会などが営まれ、その為の手伝いに暫暇するというのがある。この場合などは日頃僧堂で鍛えた修行を実地に発揮し、大いに授業寺に貢献するという機会でもある。又沢山の小僧が居る場合は入門した僧堂も異なり、それぞれ良い意味で競い合うと言うこともあり、僧堂とは違った刺激がある。
 僧堂修行は基本的には公案が中心の日々で、狭い世界で、やや観念に流れるところがある。それを現実世界に当てはめ、実地に試すという場でもある。自分のやっている修行が現実世界では、果たしてでどうなのだろうか、検証する場でもある。
 小僧時代の忘れられない思い出がある。夏の真っ盛り、うだるような暑さの中、師匠が今日は畳上げをして干そうじゃないかと言った。手が引きちぎれるかと思うほど重たい畳を全部庭に立てかけた。夕方、一枚一枚小陰に運び師匠と二人でパンパン叩き元に戻した。しかしだんだん疲れてきてお互い嫌になってしまった。「こんなこっちゃだめだ!気合でやろう。」狂気のごとき奇声を二人で張り上げ、無茶苦茶やりまくった。暑さも吹っ飛んで、あっという聞に終わった。お互い若かったんだな〜と、ほのぼのと想い出す。


 
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