第六十八回 臘八 
 一月十五日午前三時の祝聖(しゅくしん)から、二十二日午前三時の暁天喚鐘(ぎょうてんかんしょう)までの間、不眠不休で、僧堂に坐り続ける行である。年六回の大接心の中でも、この臘八が一番厳しい。一般的には十二月一日から八日未明の間なのだが、伊深では伝統的に、大寒の時期に合わせて設けられている。山中の道場だから冷え込みも一段と厳しく、年によっても違うが、冷たさも相当なものである。
午前三時の合図で全ての戸が開けられ、東司、洗面となるが、大きな石をくり抜いてある洗面水は底まで凍ってしまう。そこで、前晩に水を抜いておき、典座から湯を貰い一杯に張る。煮えくりかえるお湯も直ぐに冷たくなる。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 そもそもこの臘八はお釈迦様がブッダガヤの菩提樹の下で八日間、不眠不休の坐禅を組まれ、八日未明、明けの明星をご覧になった瞬間にお悟りを開かれたという因縁に基づいている。あの暑さのインドだから、今日我々が坐神を組む酷寒とはまるで違うが、命懸けで坐禅修行された精神は相通ずる。何処の僧堂でもこの臘八は、言い方はちょっと語弊が有るかも知れないが、一種の修行のお祭りのようなもので、勢いでやり抜く。こう言う高揚感がなければ、良い臘八にはならない。修行は一重に心意気である。手がしびれるほど寒く、横にもなれず、かなわんな〜などとしょぼくれたことを言っているようでは、どだい臘八大接心をする資格はない。
 この修行は何度やっても身の縮むような思いになる。平生の食事よりは少菜が付いてやや上等になるが、さりとてビックリするようなご馳走は出てこない。そんな中でも夜八時のご開鉢は嬉しい。ずっと開け放っていた禅堂がこのとき障子が閉められる。湯気がもうもうと立ち上がる茶粥と年末の野菜托鉢で農家の人たちから頂いた白菜を糖漬けして置いたものが出される。
慌てて食ぺると舌が火傷するほど煮えたぎった茶粥に氷のように冷たい白菜漬けが絶妙なバランスで、この世にこんな旨い物があるかと思うほどである。食べ始めは手が縮かんで箸も旨く持てない。持鉢を両手で握ってしばらく手を温め、動くようになってから食べるのである。世の中には美味しいものは溢れかえるほどあるが、このときの茶粥に優るものはない。深夜十二時、赤々と炭火が焚かれた大きな火鉢が堂内真ん中に据えられる。直日、聖侍が寮舎に引き、翌日午前二時四十五分までは火鉢に手をかざしたり、背を丸めて坐ったままうとうとすることができる。翌朝午前二時四十五分一斉に戸が聞けられ、再び坐禅が始まる。その繰り返しが続く。二十二日午前二時半、八日ぶりに接了諷経があって、その後開静!が大音声で告げられ、暁天座喚鐘が出される。このときの参禅は既に見性した者だけで、未だ眼の聞けていない者は堂内で坐ったままである。喚鐘も終わり、これにて無事円成となる。八日間に折れた警策が山ほど出るので、それを南敷き瓦の前の庭で燃やして皆で暖を取る。全身から力みが抜けて得も言われぬ開放感にしたる。これが臘八である。



 
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