第六十七回 荷担 
 僧堂は年間を通じて決まったスケジュールで判で押したような毎日である。これを規矩(きく)といい、この規矩がしっかり保たれていることが僧堂の伝統でありいのちである。だから世俗の事柄など全く関係なく、孜々兀々と決められたことを続けて行く。そう言う僧堂でも、特に関係が深いお寺からお施餓鬼や棚経、特別な法要等で荷担を依頼されることがある。この頻度は各僧堂によってまちまちで、うちの場合で言えば余り多くなく、他の行事に煩わされることなく、淡々と僧堂修行を続けることが出来て、大変良い環境だと思っている。
 しかし一方では、こう言う経験を積んで、いざ自分が寺の住職になったとき、この経験が生きるという良い側面もあるので、一概に煩わしいなどと言ってられない。あるときの施餓鬼に荷担したとき、そこでは沢山のお参りが引きも切らずあって、真夏の暑い盛りにあっちこっちへ飛ぶように動き回り、脱水症状となりへとへとになったことがある。まっ、これも若さでへこたれずに乗り切ったが、この経験も後から振り返ると、良い修行になったと思っている。さてこう言う一般的な荷担と、もう一つ大会(だいえ)の荷担がある。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 これは僧堂などで、開山さんの何百年忌や、祖師方の節目の法要に合わせて、記念のお授戒や報思接心が催され、それに荷担するというのがある。私も僧堂在錫中、幾度かこう言う荷担に出掛けたことがある。今年は臨済禅師の一千百五十年遠諱と白隠禅師の二百五十年遠諱が重なって、東福寺に全国の僧堂雲水が集まり報恩接心と法要が盛大に催された。こう言う節目の盛事に巡り会えるのは修行者としてこの上ない幸せなことである。普段はお目に掛かることのない他僧堂の雲水と隣りあわせに坐禅を組み、短期間とはいえ寝食を共にするのは得がたい経験である。お互い僧堂のメンツをかけて良い意味での競い合いをする。何処での大会だったか忘れたが、隣単の方から、お宅の僧堂さんは引き手さんと引かれ手さんとの関係が、実にビシッとしているんですね〜、と言われたことがある。こちらはごく当たり前のことをやっていただけなのだが、一口に僧堂修行と言っても、中味はいろいろなのだな〜と改めて思ったことがあった。また或る大会で接心も無事終わり、打ち上げの会も終わり、後は寝るだけと言うとき、たまたま海岸近くだったので、秘かに夕涼みを兼ねて浜辺へ散歩に出掛けた。皎々と月が照っていて、浜辺で地元の青年漁帥達が小舟に乗って網を張り魚を捕っていた。その船に同乗させて貰い、網を引く手伝いをした。何回かやっていると小魚が沢山捕れた。すると焚き火が始まり取れたての魚を焼いて酒盛りが始まった。薄暗いところなので、どういう人たちなのかもよく分からないが、大いに盛り上がった。まあ余り褒められた話ではないが、これなども図らずも経験したことで、今では懐かしい大会の想い出である。



 
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