第六十六回 亀鑑 
 「古人曰く参禅は須く是れ三要を具すべし、一つには大信根有り、二つには大疑情有り、三つには大憤志有り、若し此の一を欠かば折足の鼎の如し、云々・・・・」
 大接心前日の晩開板、木版が七・五・三と連打されると、問に髮を入れず柝が打ち鳴らされ、堂内・常住共に食堂に集合する。知客が提灯を持ち老師を食堂へ案内する。老師が坐ると同時に打ち上げられ、知客は予め小机に用意した亀鑑を捧げ持ち老師の前へ置く。老師の「ハイ!」と言う大きな声を合図に一斉に低頭、そのままの姿勢を保つ。そこで冒頭の一節が読み上げられ、引き続き人大接心の心得についてご垂戒がある。このような次第で読み上げられるのが亀鑑である。この一文は各僧堂で違っていて、何代前かの老師が作られ、それを踏襲していくのである。いつもの事ながら、亀鑑が読み上げられると、明日からはいよいよ大接心が始まるのだと言う緊張感が湧いてくる。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 一体修行は何のためにするのか。なぜこのような苦痛を乗り越えてでも、やり抜かなければならないのか、改めて修行の根本を、この亀鑑拝読で、自覚を促すのである。何事でも言えることだが、人間つい、日常の惰性に流される。
これは修行が未熟だからなのだが、人間は元来そう言うものである。それゆえ、大接心の前晩に敢えて読み上げ、修行の基本的心構えを繰り返し言い続けなければならないのである。
 修行者たるもの、須く見届けなければならない自性のあることを知り、そこに向かって何処までも徹して行くことである。そのためには大憤志、つまり例えこの命を捨ててでもやり抜く覚悟で、一点の疑問や迷いを差し挟んではいけない。精神を抖藪し、徹すれば、最早疑うべき何ものも無くなる。間違っても生半可で良しとするような事は断じて避けなければならない。
そんないい加減な悟りでは、真実の悟りとは言えない。この肝心要の処をとくと肝に銘じて、なお一層綿々密々な修行精進して行かなければならないのである。
 俗に千七百の公案と言われるが、特に初巻は何が何だかさっぱり解らず、途方に暮れる。一体どこから手を付けて良いやら五里霧中、このままの状態が続いていったら、自分のこれからはどうなるのだろうかと茫然自失、目の前は真っ暗闇になる。帥匠は嘗て自分が乍人叢林のど新頭のとき、命懸けで公案の拈提工夫されたことを繰り返し言っておられた。酷寒の冬、叡山颪と北山颪の寒風吹きすさぶなか、墓所の敷石の上で、小便垂れ流しで坐り続けたそうだ。
 十年二十年と続く長期間の修行は、どの時期を取っても楽ちんなどと言うことはない。いつも崖っぷちに佇んでいるような心境である。とりわけ初巻は、これから続く修行の入り口なので、此処が解らなければ始まらない。だから皆命懸けでやる。このときの修行が今に繋がる根本なのだと改めて思うのである。



 
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