1995年4月 桜
 

 四年程前、朝からからりと晴れ上がり、 暖かな風が気持ち良く吹き抜ける四月始めの日曜日のことであった。日課の山歩きは陽気の良さに誘われるように午前十時過ぎに寺を出た。山道は橿森公園の登り口より二百段ほどの急坂な階段を登り、やがて通称水道山に到る。そこには猫の額ほどの平地があって、今上陛下御生誕記念に植樹された桜が十数本、今を盛りに咲いている。そこから伊奈波神社に到る往復約一時間半のコースである。
 せっせと歩くと額から汗が吹き出す。伊奈波神社で折り返し帰路、水道山に差し掛った。昼時であったのか満開の桜の木の下で親子三人、弁当を広げて今当に食べようというところであった。木の下には粗末なベンチが一つあり、三十五、六才の父親がその左端に腰掛け、四、五才の女の子がベンチを食卓代わりにして地面にべたりと坐り込んでいる。その隣にも小学三、四年生ぐらいの女の子が同 じょうにして坐っている。

 丁度私がそこを通り掛かったとき、二人の女の子が私に気づきこちらをちらっと見て、それから又父親に目を向けると嬉しそうにニコッと微笑んだ。弁当は赤や緑や黄色、色とりどりに飾られてまるで花園のようであった。満開の桜の木の間を暖かく柔らかな風が吹きぬけ、三人の親子の上に花びらがひらひらと舞った。なんと可愛らしく、その子等の瞳の澄んで美しいこと か……。
 私は足早にそこを通り過ぎはしたもののしばらくして胸がだんだん熱くなり締め付けられるようになった。そしてわけもなく涙がぽろぽろとこぼれてきた。どぅしたと言うのだ。親子が楽しそうに花見の弁当を広げるさまなどさして珍しいことではない。その時私は不思議な感情の高まりをどうすることも出来なかった。寺に戻ってからもそのことが私の胸にずっと残って、翌日になっても消えることはなかった。自分自身の思いも掛けぬ心 の動揺に、一体どういうことなのだろうか、しばらくの間考え込んでしまった。それから少ししてだんだん心の中が纏まってきて、それはこう言うことではなかったのかと思うようになった。私は十八才のとき自ら志を立てて仏門に入った。その後三十年間色々あったが初志を貫いて今日まで修行を続けてきた。私にとって一番の価値は修行以外にはなく、その妨げになるものは自分の敵だとさえ考え るようになっていった。鎌倉にいた頃の一時期は人間嫌い″に陥って、誰と会うのも何を話すのも皆無意味に感じられ、わざわざ訪ねて来てくれても素っ気ない応対で、逃げるようにただひたすら自分の世界に埋没していった。今思えばずいぶん偏屈な人間になっていたものだ。そういう中で唯一心癒されたのは毎月道場へ出掛けて一週間坐禅を組んでくることだった。木枯らしの吹き抜ける禅堂でじっと坐り続けている時が私にとってこの 上なく充実して心満たされる時であった。 此処にしか自分の生きる場はないのだと感じていたのもその頃のことだった。
 しかしながらこれは気づかぬうちに私を非常に冷たい心の人間にしていった。何時も私の心の底には氷のように冷ややかなものがあり、その後鎌倉から岐阜へ寺が変わって私の身辺が様変わりしても心は一向変わらないまま何年かが過ぎていった。山歩きの時、いつも通り抜ける橿森公園で無心に遊ぶ子供たちを見てもまるで石ころが転がっているようで、おおよそ可愛らしいなどという気持ちを持 ったことなどなかった。これではまるで人非人ではないか。私は何と間違った見方をしていたのだろうか。頑なに守り続けていた心境に変化の兆しが出てきて、これは少し違うのではないかと気付き始めたのである。
 昔親しくしていたある先輩に「お前の修行は、当たらんが良い触らんが良い触れば濁る谷川の水だ。世の中のどろどろした中に首を突っ込んで泥まみれになって、しかも尚修行の心を持ち続けるのが本物だ。自分だけ清ければそれで良いと言うのは絶対間違っている。」と指摘されたことがあった。当時は私も若気のいたりで 「あなたのように泥田圃に首まで浸かって抜き差し成らず、泥亀のように這いずり回って一生浮かぶ瀬も無しとい うのは誠にお気の毒千万だ!」と言い返した。あれから十数年の歳月が流れ、親切に忠告してくれた先輩も既に他界して、今漸くその言葉の真意を汲み取ることが出来るようになった。私の修行は偏っていたのだ。泣いたり笑ったり、悔やんだり喜んだり、そういう人間らしい素直な感情を、あるがままに生きて行けばいいのだ。よし、これからは普通に生きよう。そう肝に命じた。
 あれから四年が過ぎて、今でもあの少女の微笑みがずっと私の心に残っている。こんな当たり前のことに何と遠い回り道をしてきたのだろうか。
 

 

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