1995年5月 清貧
 

 昨年の十二月、大変お世話になった老庵主が八十一歳で亡くなられた。この老尼は私の修行が二年目の頃、我々の道場にやってきた。勿論男ばかりの中で、一緒にというわけにはいかず、老師のお世話で門前の尼寺に身を置いていた。道場へは毎朝午前三時半に上って来て共に朝の勤行をし、その後本堂裏手にある霊屋のぬれ緑で独り坐禅を組み、朝の参禅を済ませて尼寺に帰る。日中は老尼を輔け て寺の仕事をし、夕方になると再び道場へ上って坐禅、参禅。解定(かいちん、消灯就寝のこと)を過ぎて深夜に至るまで夜坐という繰り返しの毎日であった。当時は二十数人の雲水がおり、血気盛んな年頃の者ばかりだったが、そんな中でも庵主さんの刺とした修行振りは目を見張るばかりであった。寺で行事があると、必ず點案(料理を造る係) で、頭には捻りはじまき姿、自分の子供ほど年の違う雲水を相手に陣頭指揮をし、もたも たしていると叱り飛ばさんばかりの勢いだった。

 又参禅入室も凄まじいばかり、あの厳格で有名だった梶浦老師を相手に一歩も引かぬ迫力であった。そんな庵主さんに対し老師は少しの手心も加えずびしびしとやっていた。庵主さんの後に参禅すると余りに厳しいやり取りをするので我々は恐がって、なるべくならすぐ後に行くのはやめた方がいいとうわさしていたものだ。
 尼寺では炊事、洗濯、掃除など日常のことは勿論、お風呂の蓋が壊れれば庵主さんは何処からか板切れを調達、勢いよくシュシュシュと鉋をかけ、トンカン金槌を使ってたちまち新しく作ってしまう腕も持っていた。当時老尼が「うちには女大工がいる。またその格好がいいんだわ!」こんな風にと、自分でその仕草を真似、悪戯っぼく微笑みながら話してくれた。
 修行四年目の頃の私には、頭に吹出物が出来るという厄介な悩みがあって、どうしても剃刀を使うことが出来ない。僧堂は四と九のつく日が剃髪日で、その日は朝からお互いに頭を剃りあうのである。
 そこで私だけは特別許可をもらい当時はまだ珍しかった電動式のバリカンを購入し、独りでやっていた。ところが大変厳格な高単が、「僧堂内で電動式のものを使うとは何事か、使うなら外へ行ってやれ!」と怒る。私は僧堂を放り出される ようにして、仕方なく庵主さんにお願いをし、四、九日毎に出掛けていっては頭を刈ってもらった。
 僧堂の朝は早い。天井が映るところから別名″天井がゆ″と呼ばれる薄いお粥をお椀に二杯いただく。しかしこれではすぐお腹はぺこぺこになってしまう。冬の寒い日は特に身にしみる。そんな季節に庵主さんの処へ伺うと、くどの焚き落としの火の一杯入った火鉢が用意され、手をかざすと指先から暖かさが沁みわたるようだった。かたわらに蒸かしたての小芋が皿に山盛りになっている。金網で その小芋をあぶり、こんがり焼けたところで生姜醤油に浸して食べる。暖かい火とすきっ腹に食べる小芋はその時の私にとって何よりのご馳走であった。
 その頃丁度私は修行の上で、崖っぷちに立たされているような状況であった。ただ毎日を必死の思いで過ごすだけで、このまま修行を続けていっていいものだろうかと悩んでいた。だから庵主さんの暖かい心使いは本当に私の励ましになった。庵主さんは一言も言わなかったが、後年当時のことを振り返ってみると、あの時逆境に敗けず危機を突破できたのも皆庵主さんのおかげと感謝している。
  ″同情は最大の侮辱≠ニよく師匠が言っていた。苦しいときに情けを掛けられるのは一時的には慰められ、救われたような気持ちになるが、やがてより一層激しい苦痛に苛まれる。安ぽっい同情ほど人の尊厳を傷つけるものはない。ただ暖かい火鉢とおいしい小芋を支度して待っていてくれたことがどれ程私の胸の奥深く沁みて私を支えてくれたか知れない。
 庵主さんはご主人を戦争で亡くされた後、女手ひとつで一人娘を育てられた。そこで娘が無事成長して嫁ぎ、初めての子供が出来たら、その時出家しようと心に決めていたという。そしてそのとおり初孫の誕生を見届けると尼僧となって京都の僧堂で修行を始めた。数年後、梶浦老師に巡り合い伊深へ移って来たのである。尼寺の生活は枯淡そのものであった。米櫃をのぞいて少なくなったら村中を托鉢してお米を項き、その代わりに童話を 書いて配っていた。絵を描くのもお好きで、可愛がっていた猫をモデルに曼陀羅図を描いたり、紺地に金泥を使って、当時いた雲水をモデルに観音さんも描いた。どれも素人の作品とは思えぬ程である。修行を愛し、文学を愛し、絵を愛し、動物をこよなく慈しみ、清く貧しく美しく生きた庵主さんの一生は私にとって何よりも尊く心に残っている。
 

 

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