1995年6月 最も苦なるは是れ江南
 

 二十年程前のことになる。縁あって鎌倉の小庵の住職になった。僧堂を引く数日前、修行中大変お世話になった先輩のところへ挨拶に伺った。その折りにこんな事をいわれた。「わしらの頃鎌倉のことを″なまくら≠ニ言ったもんだ。」この言葉は寺を持ってこれから色々やろうと胸を膨らませていた私にとって思いも掛けないものだった。
 ところが実際に鎌倉へ行ってみると様子は全く違っていて、僧堂は当時管長で僧堂師家(しけ) でもあった湊素堂老師の下、三十数名の雲水で活気に満ちていた。十数年の久参(きゅうさん、長い間修行している人)を筆頭に十年、七年、五年、三年の者など続々と居り、規矩(きく、規則のこと)もしっかりしていた。
 末寺のお師匠さん方も、老師の意志を汲んで僧堂へは最低三年はやるというのが不文律のようになっていた一。また寺院の活動も盛んで、御詠歌、坐禅会、法話合、等競うように開かれ、箱根山を越えると法は無いと言われたのは遠い昔のこと、現在の鎌倉は素堂老師の良き指導と末寺の和尚方の力によって、法は栄えていたのである。  

 ″幽州は自ずから可なり、最も苦なるは是れ江南≠ニいう言葉がある。時は宗の末期、幽州、つまり現在の北京に都があった頃、北から金が盛んに宗を侵略し苦しめた。そこで難を逃れるために都を江南の地に移した。当時江南地方は温暖な気候に恵まれ、物資が豊かで繁栄の地として、住み心地の良い代名詞になったいたという。ところがそれがかえって宗の滅ぶ原因になってしまったのである。
 人はちょっと苦境にあうと直ぐ楽な方に行きたがる。一端易きにつくと、その楽な味がいつ迄も忘れられなくなって、もう元に戻ることが出来なくなるのである。これは恵まれた環境が却って人を損なうことの証である。
 美濃地方には″美濃仏国″と言う言葉があって、かって一家に一人は必ずお坊さんになると言われたほど、沢山の僧を輩出した。臨済宗は美濃の僧によって支えられていると言っても過言ではない。何故なら長い間この地がお坊さんに対して深い尊敬と信頼を寄せていたからである。今でも各所で伽藍が次々と建立されるにつけ、檀信徒が宗門に寄せる期待の大きさを実感する。しかし外観がいくら 立派になっても、大切なことは宗門の根幹をなす真に修行した人物がどれほどいるかということだ。恵まれた仏国土にいながら、先人の築いた財産の上にただ安穏としていれば、いつの日か美濃の国に法は無い、と逆襲されるに違いない。
 今立ち返るべき最も大切なことは僧堂修行である。それがどんなにきつく厳しくとも、若い時にしっかり鍛えておくことが、その後の住職としての活動を決定するのである。
 たとえばこれから七月にかけて益々暑くなってくる。その猛暑の中、きちんと着物を付け、その上に墨染めの衣を着、更に太い手巾 (しゅきん、衣の上から腰の辺りに締める紐のこと) で体を縛り付けての坐禅は並大抵のものではない。その暑さと来たら筆舌し難いものである。体全体から汗が吹き出し、まるで衣の上からバケツで水を被ったようになる。
 それから夏は蚊の襲来に悩まされる時期でもある。特に私の修行した道場は山奥だったので、それはもう凄まじいばかりであった。頭 (剃髪しているため蚊にとっては格好なたかり場。)顔、首はもとより、膝などは衣の上から刺してくるのだ。手の甲に至ってはまるで黒胡麻を振 りかけたようになる。それでも最初のうちは多少痒いが、その儘じっと我慢していれば、そのうち手全体が麻痺してしまって、もう何ともなくなる。後グローブのような手になる。
 では冬ならば良いかと思えば、どっこい冬の寒さもなかなか厳しい。火の気のない禅堂は敷瓦が一層冷え冷えとして、足先から寒気がはい上がって来るようだ。
  特に托鉢の前日に雪が降って夜には晴れ上がり、翌早朝に出立という場合、その第一歩を踏み出すのはかなりのものだ。
 雪の表面はカチカチに凍って、その中に足を突っ込んで歩いていればたちまちピリピリと痛み始める。その内自分の足でも自分のものとは思えないように感覚は薄れ、痛みも無くなってしまう。当時はまだ砂利道ばかりだったから、うっかりすると知らぬ間に石を蹴り、生ずめをはがし血がぽとぽとと落ち、それでも気づかずに歩き続けていることがあった。だからといって可愛そうなどと同情した ら元の木阿弥だ。心のどこかで人に同情を求めた時、それまで積み重ねてきたものは脆くも崩れ去ってしまうのだ。例え極限状態の真っ只中に置かれても、自らの工夫に依って一縷の光明を見出だし、ひるまず邁進しつづけることが、唯一自らを苦しみから救い出す方法なのだと認識しなければならないのである。
 

 

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