二十年程前のことになる。縁あって鎌倉の小庵の住職になった。僧堂を引く数日前、修行中大変お世話になった先輩のところへ挨拶に伺った。その折りにこんな事をいわれた。「わしらの頃鎌倉のことを″なまくら≠ニ言ったもんだ。」この言葉は寺を持ってこれから色々やろうと胸を膨らませていた私にとって思いも掛けないものだった。
ところが実際に鎌倉へ行ってみると様子は全く違っていて、僧堂は当時管長で僧堂師家(しけ) でもあった湊素堂老師の下、三十数名の雲水で活気に満ちていた。十数年の久参(きゅうさん、長い間修行している人)を筆頭に十年、七年、五年、三年の者など続々と居り、規矩(きく、規則のこと)もしっかりしていた。
末寺のお師匠さん方も、老師の意志を汲んで僧堂へは最低三年はやるというのが不文律のようになっていた一。また寺院の活動も盛んで、御詠歌、坐禅会、法話合、等競うように開かれ、箱根山を越えると法は無いと言われたのは遠い昔のこと、現在の鎌倉は素堂老師の良き指導と末寺の和尚方の力によって、法は栄えていたのである。
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