1995年9月 小僧生活
 

 昭和三十六年十八歳の時、私は京都の或る寺へ小僧に入った。周辺は西陣織の小さな機屋さんが軒を連ねており、門前には棟割り長屋がずっと続いていた。今でも夏の暑い盛りになるとそれぞれ縁台を出して涼をとる姿を見かける、京都の典型的な下町風情を留めている所である。寺の檀家は少なく、和尚も独り者でこじんまりとしていた。小僧としての私の主な仕事は庭掃除、草引き、他には三度の食事の支度という繰り返しの毎日であっ た。小僧は私独りきりだったので、何から何までやらなければならなかったが、それが却って気楽でもあった。特に和尚も余り細かいことは言わない放任主義であったから、今ならとても恥ずかしくて人様には言えないような私の未熟さも、余程の事がなければ目をつぶって見逃してくれていた。

 今でも忘れることの出来ないこんなことがある。その日は檀家の常飯(じょうはん、毎月日時を決め、定期的にお経をあげること。)で、何時もの通り和尚が行くことになっていた。ところがたまたま何か別に用事が出来てしまい、代わって私に行くようにと命ぜられた。いきなり言われたので私は「今日はお経をよむ気分ではありませんから行きません。」と何の考えもなく涼しい顔をして断った。これにはさすがの和尚も怒って「寺の小僧 がお経よみを命ぜられて、そういう気分では無いから行かないとは何事か。そんなに嫌ならお坊さんなんか辞めてしまえ!」と怒鳴った。しかしそう言い捨てると、それっきり問い詰めることもせずに、やり繰り算段をして自分で出掛けて行ってしまった。今思うと何故あんな馬鹿なことを言ったのか自分でもよく分からない。ともかくその時の和尚の態度はそんな風で、「俺はお前の師匠ではない。 同行二人(どうぎょうににん)であって、 に修行する仲間ということだ。」これが何時もの口癖だった。後、当時のことを想い出す度、和尚のあのやり方が私にとっては一番良かったのだと思い知らされる。もし相手が厳格な人だったら、私は小僧生活を途中で投げ出していたかも知れない。
 この和尚は十二歳で出家して小僧に入り、爾来三十数年をこの寺で経ていた。その師匠という人がこれまた非常に厳しい人で、小さい時から徹底的に鍛えられたのである。だから決して何の考えもなくそうしていたのではなく、全てを承知した上でこの方法を取っていたのである。一方私はと言えばそういう和尚の深い配慮を知りもせず、好き放題していた。当然のことながら幾つもの失敗をし、度 々痛い目にもあった。そんな私をやや離れた処から冷ややかに眺め、「いくら言ったって駄目だ。体得して初めて本当に自分のものになるのだ。」とそういう風だった。
 和尚とほぼ同年代、かつて一緒に小僧生活を経験したことがあるという人が、その当時寺の一部屋を借り、下宿しながら会社勤めをしていた。その人が「和尚さん、本人は何も分からないのだから、もう少し清田君に細かい注意をしてやらなければ駄目だ。和尚さんのやり方は不親切だ。」と言ったことがある。しかし和尚は依然として何も言おうともせず、だから私は益々勝手放題になっていた。
 やがて私が道場に入門し、多くの雲水の中でもまれ鍛えられ、その時の自らの間違いが分かるようになっていた。今となって当時を振り返ると恥ずかしくて堪らない事ばかりだが、しかし味わった悔恨は無駄にならず、後の私の修行をどれ程支えたか計り知れない。若いうちの失敗は誰にもある。しかしそれを決してただの失敗だけで終わらせずに、正しい形に蘇らせることが肝心なのである。

 さて、そんな情けない小僧生活をした私であるが、どういう巡り合わせか今、道場を預かり何人かの雲水を指導して行く立場になった。私のやり方は和尚とは違い、反面教師とも言うべく綿密で且つ厳格である。箸の上げ下げに至るまで注意をするというやり方を取っている。それが原因かどうか定かではないが、私の処に来る雲水は少しも長く留まらないので、これが私の悩みの種である。二年か 三年居れば良い方で、早い者は一年でさっさと帰ってしまう。或る人は「そのやり方はちょっと厳し過ぎやしませんか。もう少し柔らかくやったら如何でしょうか。」などと言う。言われる迄もなく私自身が小僧時代のびのびと育ててもらったことは書いた通りで、その有り難さは誰よりも私が一番良く知っている。それならば雲水にもそのようにすれば良いのにと思うかも知れないが、それは違う。何故ならそれは正念相続し、修行を継続し てゆくことによって初めて正しく蘇ってくるのである。腰掛けの修行では所詮失敗は永久に失敗のままに終わり、決して自らを救う力にはならないからである。

 

 

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