1995年10月 対一説(たいいっせつ)
 

 昭和五十年、僧堂修行に一応の区切りを付けた私は、鎌倉の小庵に住職した。檀家は一軒もなく、主な仕事といえば毎日の境内掃除と草取りであった。私はこんなに何もない寺の住職になって、一体これから何をしてゆけば良いのかと考えた。そうしているうち自然に、自分には矢張り修行を続けてゆく以外に道はないのだと思うようになった。そして一つの志をたてた。当時三十三才だったが、年 六回の大接心(おおぜっしん、一週間集中的に坐禅修行する。)をこれから六十才還暦まで頑張って通い続けようと心に決めたのである。とは言うものの、一端道場を出てしまえば世間一般の生活をしているわけで、これからずっと志を曲げずに通うことが出来るものか気掛かりであった。しかし案ずるより産むが易しとはこのことで、一回行けばむしろ次が待ち遠しい程になった。

一方寺での日常は実に淡々としたもので、離れ小島に一人流されているような孤立感が私を包んでいった。鎌倉は観光地でもあり、その寺自体も決して人里離れてはいなかったが、周りにどれ程人がいても、私にとっては無縁な世界であった。しばらくは大接心に出掛け、帰った ら寺の掃除という繰り返しの何年かが経った。そうしているうちに私の心の内部に微妙な変化が生じ、修行そのものに対する虚しさが襲い始めたのである。
 我々の修行は入門と同時に公案(こうあん) という問題を与えられ、朝晩二回老師の所へその答えを持ってゆく、所謂参禅を通じて心境を深めて行くというものである。しかしこれも十年、十五年と続けているうちに、答えに幾つかのパターンがあることが解ってくる。するとやがては新到の頃の清新さも失われ、ただ透過したというだけの、何ら意味の無いものになってしまう。気が付けば私も同じ有様で、修行がいやになった訳ではな いのだが、ただ心の中にぽっかりと穴が開いて、そこを冷たい風が吹き抜けて行くような、そんな寂寞とした感じになっていった。
 丁度そんな頃のことだ。管長さんの御親化(ごしんけ) のお供をすることになった。御親化というのは末寺を管長さんが一ケ寺一ケ寺出向き、檀家の方々と直にお目にかかる行事である。その日は木枯らしが吹き、あいにく途中から雨も降りだして一層寒々としていた。既に朝から何ケ寺も巡って、その日の最後は小高い山の中にお堂だけがぽつんと建っている無住寺(住職の居ない寺)であった。管長さんをお迎えするというので一応掃 除はしてあるものの、修理もままならない様子で、床は歩く度にふわふわ揺れ、畳は破れ祭壇は大きく傾いていた。集まった檀家は二十数人、山奥の暮らしを思わせる作業着のままであった。冷たい雨の降りしきる中、崩れかけた階段を登るうち足元は濡れ、暖房もないお堂の中で体は芯から冷えてくるようだった。到着して直ぐにお経をあげることになっていたので、中央には管長さんの為に座布団 が一枚置いてあった。ふと見ると穴が開いて中の綿がはみ出ている。それを見ると慌てて地元の和尚さんが座布団を引っ繰り返した。ところが裏側には表よりもっと大きな穴が開いていたのである。お経が終わると管長さんは懐からいくばくかのお金を出し、せめてこれで祭壇の傾いているのを直しなさいと言い、総代さんに手渡した。
 正直の所私はそれまで早くこの場を退散したいものだと思っていたのだ。ところが管長さんはそんな様子は一向見せず愛情いっぱいに、いつ迄も暖かく包み込むように応対された。それからこんな話 もされた。以前住職していた和歌山のお寺から建長寺へ移る時のこと、山深い所からはるばる見送りにきた檀家総代のお爺さんが、いよいよこれでお別れという段になって、涙をぼろぼろとこぼしたという。それを見た管長さんは、目出度い 席で涙なんか流すもんじゃない、と父親ほども歳の違うお爺さん達を叱り付けた。ところがそう言っている自分の目からも次々と涙がこぼれてしまったという。

名もなく貧しく美しくという言葉があるけれど、管長さんはこれが一番好きな言葉だと言い、十数年前の和歌山のお爺さん達を想いだすようにして、また目からぼ ろぼろと涙をこぼしておられた。そのやり取りをじっと見ていた私は、老師の修行の奥深さをひしひしと感じた。自分の修行に行き詰まり、同じことの繰り返しに何の意味があるのかと疑問を感じ始めていた私にとって、それは間違いであると思い知らされた瞬間であった。老師の莫直に相対するものと一つになって行く凄まじいばかりのやり取りを垣間見た時、一生修行で生きるとはこういうことなのだと思い知らされた。もう一度一からやり直しだと思った。この時のことは当時の私に、一縷の光明を与えてくれた忘れられない出来事であった。

 

 

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