1998年2月 母と子
 
 或る時友人からこんな話を聞かされたことがある。彼の母親は若い頃仕事を持っており、今で言うキャリアウーマンであった。そこで生まれて間もなく彼は施設に預けられ、子育ては殆ど他人任せで、むしろ自分の仕事や日常生活に子供は邪魔と思われた。だから小学校も全寮制のしかも家からは遠く離れた所へ入れられてしまったという。彼は結局大学卒業まで親とは全く離れ離れの生活を送ったのである。おまけにまだ小さかった頃に、事情があって両親が離婚してしまったので、時折家に戻っても家庭の温かさは皆無だったようである。その頃の唯一の楽しみは別れてしまった父親の所へたまに会いに行くことで、絵の好きだった父親に連れられてよく美術館めぐりをしたそうである。
 特に辛かったことは彼がまだ小学生だった頃、学校が休みになると友達は次々に親が迎えにきて、皆嬉しそうに帰って行くのに、被の処へは母親は一度としてそのように迎えに来てはくれなかったことだと言う。
我が家に戻っても、遠い学校に遣られていたので、隣近所には一緒に遊ぶ友達は一人もいない。更に母親は仕事で朝早くから出掛けて行くため、子供一人残しておいて火事でも出されたら一大事と、家に鍵を掛けて出掛けて行く。彼はわずかばかりの昼食代のお金を持たされ、「お前は外に出ていなさい。」と追い出されてしまう。特に寒い冬は何処へ行くあてもなく、ぶるぶる震えながら街をほっつき歩いたり、公園のべンチに腰掛けて日を過ごしたという。まだいたいけない子供が寒空の下、家に戻るわけにも行かないとは、その頃の彼の気持を思うと心が痛む。このように彼は幼児期から厳しい生い立ちであった。頼れるのは 自分しかいないことを身に沁みて感じ、苦労に苦労を重ねながら自分の生きる道を確立していったのである。
 ところで今の彼にはいまだに母を許すことが出来ないという悩みがある。こうせざるを得なかった理由は多分母親の側にもあったのだろう。そこを少しは理解できるようになった今、彼は親子の心の繋がりを模索している。しかしながら一端出来てしまった互いの溝はなかなか埋まらない。母親は既に七十を越える程の年令になっているのに、今尚彼とはしっくりいっていないのだ。たまに何かの折 りに会うことがあっても、ちょっとしたやり取りや言葉の端々に不信感をつのらせるだけで、お互いの心はトゲトゲとしてしまう。彼自身も既に四十を過ぎ、家庭を持ち我々から見れば、もう”お母さん“でもなかろうと思うのだが、彼の口癖はいつも「お母さんが一言、私が悪かった!と言ってくれさえしたら、それで全ては解決する。」なのである。
 思えば二人は誠に不幸な親子である。心の中では何とかしたいと願い、努力していながらそれが出来ないのだ。それでも彼は何時かこの母親と温かな心の交流を持ちたいと願い続けている。揺れ動く葛藤の中で苦渋の日々を送らなければならない彼の心境は察するに余りある。
 私自身は母からも父からも溢れるほどの愛情で育てられた。ではそういう親を持った私と彼のような母親を持った者とは、一個の人間として生きてゆく上でどのような違いが生ずるのだろうか。一般的に言えば愛情いっぱいの中で育てられた方が良いと思うし、それが当たり前と思う。しかしそう結論を急いではいけない。昔から艱難汝を玉にする“と言って、彼の場合も母親から受けた稀に見る 薄情さが却って強く心を鍛え、深く見つめる眼を養ったのである。しかもその厳しい生い立ちの中でも決して心を歪めることなく、それが却って素直に他人の優しさを受けとめることが出来るようになったのだ。私のように、のほほんと育って来た者には到底測り知ることの出来ないものがある。

 禅の修行ではよく赤子のような生まれたままの無垢な心境になれ“という。ではどんなに苦労した大人より赤子が最高の精神を極めた者と言えるのだろうか。純粋ということは裏を返せば脆くはかないということでもある。従って少しの逆境に遭っても、忽ちのうちにそんな純粋さは消し飛んでしまう。鍛えて鍛えて鍛え上げ、地獄のような苦しみの中から自らの努力と辛抱で得たものは強く、そうでなければ本当に無垢な心境を維持して 行くことは不可能なのだ。彼の今の苦しみがいつ迄続くのかは分からない。しかし必ず何時か、お母さんと心が通じ合う日がやってくると信じている。なぜなら彼は誰よりも人の心の優しさを感ずることの出来る深い愛情を持った人だからだ。今我々の周囲には有り余る程の親の愛を受けながらも、自立心や、思いやりのない若者をよく見かける。真の愛情とはそんな野放図なものではなく、冷たく厳しく、与える側も受ける側もぎりぎりの処で相い闘うものではないだろうか。

 

 

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