1998年9月 生きる
 
 或る和尚さんに頼まれて岐阜刑務所へ講話に出掛けたことがある。その日はお釈迦さまがお生まれになった四月八日、お祝いの花祭りの行事であった。こういう所でも年間色々な行事が催されているそうで、この日の行事もその内の一つである。大きな体育館には既に囚人達がおよそ八十人余り、きちんと椅子に腰掛けている。正面ステージ中央には花御堂(はなみどう) がおかれ、水盤にたっぷりと甘茶が入れられ、その中に天地を指し た小さなお釈迦さまの像が安置されている。すぐ二人の和尚さん達によってお経が読まれ、囚人達の代表十二人が次々に登壇しては合掌して、お釈迦さまに甘茶をかけた。私は丁度真横からその姿を見る位置に居たのだが、その丁寧な礼拝とあたかも童子のごとき純心さに驚かされた。聞くところによればここは大変重い罪をしかも繰り返し犯したものばかり入っている、全国でも数少ない刑務所だという。
いったいそういう人達はどういう顔 をしているのだろうかと注目していたのだが、それが実に良い人相をしている。何故この人達が悪の道へ落ちて行かなければならなかったのだろうか。顔を見れば人となりが分かるというが、どう見ても重罪を犯す顔ではない。何とも割り切れない思いで帰ってきた。
 それからしばらくして、ふと僧堂時代 のことを想い出した。私よりずっと後輩の雲水で、サラリーマンから転身、一念発起して出家、この道に入った男がいた。自ら志を起てて修行するというのは大変珍しいことで、うまく育ってくれれば良いがと心密かに期待していた。
 やがて一年が経ち、制間(せいかん)に入り、各々暇をもらって自坊に帰り、しばし一息入れる時期になって、彼は遂に戻ってくることはなかった。日頃から真面目だっただけにどうした訳かと案じた。それから暫くして風の便りに、彼は今別の僧堂に移って修行しているらしいと聞いた。それなら艮かった。ここに縁は無かったが、ともかく修行を途中で折らずに頑張っているなら、又新たな道も 開けてくるだろうと期待した。その後ひょんな回り合わせから、私は彼が移って行った道場の老師に面識を得、折りに触れてお訪ねするようなった。そんな時には何度か彼の顔を見る機会があった。思った通り彼の莫面目な修行ぶりは一向変わらず、三年経ち五年経ち遂に十年が経った。きっと彼にはその道場の水が合っていたのだろうし、師事した老師の良き指導の賜であったに違いない。このまま 行けばいつか修行を大成して宗門の為に貴重な存在になるに違いないと期待した。
 そんな或る日道場を訪ねると彼の姿が見えない。聞けば既に郷里に引き上げ、現在は結婚してアパートに住まい、近所の寺の手伝いなどをしながら生計を立てているということであった。この顛末は私にとって非常にショックだった。何故十年間の修行を次のステップに生かすことが出来なかったのだろうか。一口に十年と言うが、それは決して軽いものではない。にも拘わらす結局まともに宗門の 仲間に入ることも出来ず、安アパートで在家同様の暮らしである。そんな人生になんの価値があるというのか。
 我々は修行によって普通の人が知ることの出来ない貴重な体験をし、多くのことを学ぶ。しかしそれは同時に多くのものを失っているということでもあるのだ。私も修行中は当時世間で何があって、どんな世の中だったのか一向知らない。山奥の道場で坐禅や作務(さむ)の明け暮 れであった。頭の中は公案のことばかり、苦しい日々が続き、世間のことなど知る由もなかった。多感な時代、もし山に籠もらなかったら知ったり体験したであろう多くの事柄を、一方では沢山失っていたということである。自らの内に向かって極めていけば今自分の拠り所は何かを知る筈である。結局彼の十年に及ぶ修行にはその重要な点が欠落していたのである。

 たしかに人間は弱いもので、自分を知るということはそう簡単なことではない。そこで同じ志を持つ道友に巡り合うということが大変重要になってくる。何時も間違いなく北と南を指し示す羅針盤が要る。暗中模索の日々で救いはこれだ。私のような頼りない者が何とかこの道で生きてこれたのは大きな壁に打ち当たったとき、良き先輩の適切なアドバイスがあったお陰である。しかし人生に於いてそういう良き縁に巡り合うことは難しい。 もしあの時本当に親身になって忠告してくれる友人がいたら、罪を犯さず今頃刑務所暮らしをしなくとも済んだに違いない。自分の弱さ未熟さを知って、自分一人の力では何一つ出来ないのだと悟り、謙虚に人の声に耳を傾けることが、結局自らを救って行く唯一の道だと知ること、これが人生を誤らずに生きるということに繋がるのである。

 

 

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