我々の修行は入門と同時に公案(こうあん)という問題を与えられ、朝晩二回老師の所へその答えを持ってゆく。所謂参禅を通じて一則一則の公案を透過し、心境を深めて行くというものであるが、これも十年十五年と続けていると、次第に答えには幾つかのパターンがあることが解ってくる。やがては新到の頃の清新さは失われ、ただ透過したというだけの、何ら意味の無いものになってしまっていた。心の中にぽかりと穴が開いて、冷た い風が吹き抜けて行くような寂寛とした感じであった。