1998年11月 道草
 
 現代は互いに誠に忙しい毎日である。私の友人にも会うと何時も開口一番、ああー忙しい!≠ニ口癖のように言う人がいる。忙しいことを一種の価値観のようにみなして、だから暇でのんびり暮らしているような奴は社会的に価値の無い者という考えを心のどこかに持っていて、忙しいことをむしろ誇らしげにしているのである。しかしそれは本当に正しいのだろうか。その忙しさの中身を丁寧に一つ一つ点検してみれば、そうたいした価 値はないと思うのだが。
 ではこの忙しさは一体何処から始まったのだろうか。それは一言で言えば科学技術が発達し、便利で効率的になったことからである。これは一見逆のような気がするが、実は両者は深く関わり合っているのである。例えば新幹線を例にとると、これが出来たことで移動は極めて早くなった。従来は二日がかりで済ませた東京方面への用事が、今では一日で充分である。
昔神奈川県の郷里を出て岐阜へ 来た頃は、急行に乗っても六時間位はかかった。しかし今ならばのぞみ≠ナたった一時間半、一服付けて新聞を広げあくびをしたらもう東京に到着である。それでは昔の六時間は全く無駄な六時間になってしまうのだろうか。私にはそうとばかりは言えないような気がする。列車の心地好いリズミカルな揺れに身を任せ、ボーッと車窓から外の景色を眺めていると、普段の生活とはちょっと違った心境になっていろいろともの思う。或は隣の 人と思わず話し込んで、いい話の一つも聞けることがある。,袖すり合うも他生の縁=@である。考えてみればそれぞれが六時間という時間の生み出す価値だったのである。
 又各地で立派な図書館が次々に完成しているが、今日ではどの図書館でも、本の検索は全てパソコンである。本のタイトルか著者の名前をインプットすればその本が図書館のどの棚にあって、今貸出し中なのかどうかが立ちどころに分かる。当然予約も瞬時に出来る。更にはもしその本がこの図書館にない場合でも、他の図書館とオンラインシステムで結ばれ、何処ならあるのかも直ぐに教えてくれるといった手回しの良さである。ちょっと 前なら背表紙を眺めながらいちいち探し回った。確かに時間はかかったが、目的の本を探している間に偶然興味ある本に出会い、思わぬ発見をすることが多々ある。また読書家にとっては様々に装丁された本を眺めながら探すことも楽しみの一つなのである。
 近頃では皆さん方はよく旅をされる。これも同じで、旅は何も目的地に早く着くばかりが良いわけではない。何日も前からいろいろと考えながら旅支度をしたり、地図を広げて想像するのも旅の愉しみである。また旅先では途中道に迷ったり、或はうっかり電車に乗り遅れたり、いろいろなアクシデントに見舞われ失敗するのも、家に帰って思い出してみれば楽しい旅だったということになるのであ る。
 さて話を元に戻すと、科学技術の発達は目的にいかに早く効率的に辿り着くかということばかりを念頭に置いて進められてきた。そのためには余分な手間を極力省くことが必須条件であり、徹底的に効率化を推し進めてゆくのである。しかしそればかりが絶対唯一の価値なのだろうか。大事なことは目的に到達する過 程≠ノもあるのではないだろうか。一見道草のように見える事柄にも、実はそこの価値があるのだ。
 道草といえば人間の一生もこれと同じで、おぎゃーと産まれりゃ、後は墓場までの道草“である。これこそ墓場までのプロセスに人生の価値があるわけで、早いのが良いのなら、おぎゃーと産まれて直ぐ死ぬのが一番効率的で無駄の無い人生だと言うことになる。いやしかしそんなことはあるまい。有漏路(うろじ)より無漏路へ帰る一と休み雨降らば降れ風吹かば吹け≠ニいう一休禅師の歌があるが、人生の目的地は死≠ネのである。 死ぬまでの七、八十年間はいわば道草であり、喜んだり悲しんだりしながら過ごすのである。

まさに道草こそが人生そのものなのである。我々は小さい時から成長すること、進歩すること、豊かになること、それが人生を積極的に生きることであり善だと教え込まれてきた。しかし逆に進歩しない、失敗して遠回りするという、極めて効率の悪い人生を歩むこともまた同様の価値が見いだせるのではな いだろうか。禅の修行でも「無駄骨を折れ!」と言う。与えられた公案の答えを早く出したからといってその者が良い修行をしたことにはならない。むしろ大いに迷ったほうが良いのである。見知らぬ土地で道に迷うのと同様で、それだけ時間は掛かったかもしれないがより広い範囲を知ることが出来た訳である。ここらで一つ道草をしてみたら又新しい眼が開けるのではなかろうか。

 

 

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