1998年12月 時節因縁
 
 ロンドン禅堂の道場主のポール氏が日本にやって来たのは今から二十数年前、弱冠二十二才のときであった。頼るべきあてもない未知の国日本に来た動機は何だったのか。是非一度聞いてみたいと思っていた。その時の彼の答えは次のようなものであった。大学時代、友人にタイの僧の指導を得て瞑想をしていた者がいて、その友人の影響を受け次第に彼自身も瞑想やヨガに興味を持つようになって いった。その頃から既に漠然としてではあるが、何か東洋的なものへの憧れがあったのかも知れぬ。そんな折りたまたま日本映画を観た。それは市川昆監督の上意討ち″という作品だったそうだ。その中で次のような場面が非常に印象深かったというのである。それは一族の危機存亡の場面で、一同部屋に集まり各々意見を述べるところである。皆びっしと姿勢を正し武士として鍛えられた一つの 型をもっていた。
しかし各々の発言は実に自由闊達で非常にパワーがあり、威厳に満ち溢れている。その一語一語は腹の底から響き渡り、心の奥深いところで一度抑えられたものが、ゆっくり呼吸と共に沸き上がってくるようだった。武士達は型にはまるという事と自由でのびのびしているという事と、全く相反するものを同時に持ち合わせているのだった。これは絶対に西欧にはないもので、こんな 魅力的な素晴らしい人の住んでいる日本という国へ是非行ってみたいと思ったという。
 遂に彼は意を決して、ロシア横断鉄道に乗りナホトカ経由、船で横浜に向かった。ところがこれから行く日本の何処にも彼の頼るべきあてはない。どうしたものか考えあぐねた末、一計を案じた。そうだ、旅行中に日本人に会ったら、少しでも自分の目的を話してコネを作っておこう。早速日本人の顔を見付けては片っ端から、「自分は日本へ行って禅を学びたい。どこか適当なお寺を紹介して欲しい。」と言って回った。果たせるかなナホトカからの船の中で野中氏に岐阜に大きな禅 寺があるから、そこを紹介してやろうかと声をかけられた。
 無事横浜港に着き、翌日案内されたところが京都の妙心寺であった。当時岐阜正眼時の住職梶浦逸外老師は数年前より妙心寺の管長となり、京都に常に居られた。野中氏は老師の信者さんだったのである。その時老師は 「ここでは本格的な 修行は出来ないから岐阜の正眼寺の方へ行きなさい。」と言われ、彼はすぐその足で野中氏に伴われ岐阜にやって来たのである。
 さて当時私は僧堂の最古参の雲水だった。一言の日本語も喋ることの出来ないひ弱なこの英国青年を迎え、はたして辛抱できるものか心配した。しかしこうした我々の心配は無用であった。衣食住どれを取っても厳しい条件の中、彼の頑張りは予想外と言ってもいい程であった。 僧堂での慣れない坐禅は長時間に渡り、その苦痛は量り知れない。その上やって来た時期が既に冬に入っていたので、暖房のない僧堂の寒さは堪えたに違いない。 途中一時期日本語学校にも通い勉強し日本語の上達振りも目を見張るばかりであった。日常会話は勿論のこと、禅に関する言葉も少しづつ学んでいった。結局五年の歳月を修行して英国に帰って行った。良く逆境にもめげず辛抱した。
 さて彼とそんな話をしているうちに私の胸にふと想い浮かぶものがあった。私の出家にも実は似たようなことがあった。それは私がまだ高校生の頃のこと、或る時友達に誘われて“親鸞″という映画を観た。その中にこんな場面があった。親鸞がまだ若き日の比叡山での修行中のこと、炊事係の下働きを命ぜられ水桶を提げて台所の土間に入ってきたところ、どういう弾みか蹴蹟いて手にした桶をひっくり返してしまった。水はあたり一面に 飛び散り、それを見た先輩の修行僧は親鸞を激しく叱って、その上足で踏んづけたのである。親鸞は泥だらけになりながらも必死になって謝った。とそういう場面である。何故かこの映像がいつまでも胸の奥深くに焼き付いて離れなかった。そして何時か私もこういう世界で生きてみたいと思うようになった。どうしてあの場面が私の心をこんなにまで引き付けたのだろうか全くもって不思議な気がし てならない。

 さてポールも私も共に何でもないような映画の一場面が人生を大きく変える転機となった。ここで思われるのは我々は自分で気が付かないうちに、人生如何に生くべきかの選択を心の奥深いところでじっと温めているのではないかということである。それが時節因縁に依って、あたかも枯れ枝がたった一本のマッチで一気に燃え上がるように大変革を遂げたのである。だから根気よくいつもじっと心 を見つめ続け、機が熟するのを待ことが何より大事なのである。

 

 

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