2000年7月 社交場
 
 一般の人の社交場といえば今はゴルフ場なのかもしれない。広々としたグリーンで心地良い風に吹かれながら四人一組で回るわけだから、当然親しい友人或は取引先の人などを誘って出掛けることになる。それも堅苦しいことはやめにして万事気楽が一番と、お互いリラックスした付き合いになる。これが実に現代の風潮にぴったりで、招く方も又招かれる方も双方満足出来、親交は深まるという具合らしい。
 しかし曾て我が国の男の社交場と言えば″お茶″であった。そこで使われる茶碗や茶入れ、茶杓、水差し或いは花器などの道具類を拝見したり、また床の掛け軸の言葉について興味ある話を聞いたりと、大いに教養を高めながらゆったりとした時間を過ごし楽しんだ。確かにお茶は作法なども多く少々堅苦しいと思われる面もあるが、それが全てではない。やがて出てくる心の籠もった美味しい懐石料理に舌鼓を打ち、亭主秘蔵の美酒など を頂きながら賑やかに歓談もする。茶道は眼耳鼻舌身の五感を楽しませる全てのものが総合的にコーディネイトされているのである。

正式なお茶事を経験された方はお分りと思うが、お茶の世界は実に奥行が深く、いわば日本文化の集大成とも言えるものである。茶と禅が並び称せられるように、茶道の底には禅がある。それは禅が日本人の精神の根底にあるもので、つまりお茶を楽しめなくては日本人ではないと言っても過言ではないのだ。
 さてこれは或いは外交官で、ドイツに赴任した人の話である。彼は小さい時から学力優秀で、言ってみれば勉強の虫みたいな人。大学卒業後直ぐに官僚としての仕事に就いたから殆ど趣味らしい趣味も持たずに来てしまった。ところが此処ではパーティーが盛んで、そこで如何に注目されるかが重要な仕事の一つであるということが赴任後徐々に解ってきた。しかしダンスどころか気の効いた会話一つ出来ない身ではとても洗練されたヨーロッパの人達と互角に渡り合うことは出来ない。何かないものかと考え、これだ!と思いついたのがピアノである。宴たけなわに差し掛かった頃、鮮やかにクラシックを弾き、並み居る人を振り向かせる。ところが今迄ピアノなんか触ったこともない。そこで自宅に音楽大学の学生に来てもらい一番難しい曲を三曲だけ教えて欲しいと頼む。勿論基礎からやっ ている暇など無いから、いきなりその難しい曲を徹底的に訓練することにした。ピアノは要するに数学だ!と解釈したそうで、やるとなったら凄まじいばかり。遂に全くの素人がその難しいのを三曲弾けるようになったという。驚くべき努力と才能である。そうして外国へ出掛けパーティーに招かれると頃合を見計らって、颯爽と出て行き、見事にピアノを弾き拍手喝采を浴びた。
 ここで思うのは社交というものには必ずそれなりの教養がなければ駄目だと言うことである。集まってただ料理に食らいつき、酒をがぶがぶ飲み、話すことといったら野球とゴルフ。これではしょうがない。別に気取って小難しい知識をひけらかす必要などないが、さりとて井戸端会議の延長ではどうも頂けない。エスプリの効いた楽しい会話ならそれだけ気持ち良く時を過ごせるというものだ。
 前記の通り曾て日本には茶道という世界に冠たる社交場があった。しかしこれを楽しむには相応の作法や茶道具についての知識がなければ駄目だ。そのためか今ではすっかり影を潜めてしまった。しかし一つには男が仕事にばかり振り回され、それを良い言い訳にして、我々の先祖が長い間築き上げてきたお茶文化を蔑ろにしてきたことに原因があるのではないだろうか。今こそお茶を男の社交場として見直し復活させるべきだ。ここらで全く発想を変え、世の男性諸君にもゴルフを止めて茶道をしよう!というコピーで呼び掛ける。伝統ある日本のお茶の本当の楽しさとは、その根底に流れている日本文化を味わい、日本固有の精神を再認識できることだ。お茶は当に日本の社交場として相応しいというこを大いに敬蒙してゆく必要がある。

 どの分野でも同様に気楽が何よりと、型にはめられるのは個性を埋没させるから駄目だと考えるようである。個人が自由に振る舞うことを重視し価値を見いだしているわけだが、私はそうは考えない。お茶が一見規則ずくめで約束事ばかりに見えても、実は案外自由で幅のきくものだ。ましてや曾ての如く男中心のお茶が盛んになれば今よりもっとざっくばらんでしかも大らかな男茶事が実現できると思う。我が寺主催の坐禅会では一年の総 括と親睦をかね、寺で茶事を催し、その後食事をしながら親睦会ということにした。指導には山内のお茶の″通″の和尚さんをお願いしてある。今迄のただ飲み食いだけの会で終わらず一味違ったものになるだろうと大いに期待している。

 

 

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