2000年8月 宗盟心
 
 ふっと僧堂で修行していた頃の托鉢の情景が頭に浮かんだ。田舎叢林だったから托鉢では本当によく歩いたものだ。近い所でも約一時間、遠方に成れば約二十キロも歩く。これだけ歩くとなると当然のことながら草鞋が何足も要る。遠方の時は看板袋の中に二、三足は用意して出掛けた。草鞋は歩きだして二、三十分もすれば踵の所は直ぐ抜けてしまい穴が開く。そのうち前も抜けて土踏まずの所だけが残る。こうして破れるところが全部破れてからが相当履けるものなのだ。こうなると殆ど裸足で歩いているのと同じだが、足の方も次第に鍛えられ、皮膚がまるで地下足袋の底のように分厚くなって、どんな道でも平気で歩けるようになる。今でも懐いだすのは月一回の大遠鉢である。この日は起床も午前三時と何時もより少し早めで、朝課は懈怠して直ぐ朝食となる。特別メニューの白的に味噌汁、沢庵である。朝っぱらからこんな豪華版なのはこれから長距離を歩いて托鉢に出掛けなければならないからだ。

特に冬場は出発の頃になっても、まだ外は真っ暗闇である。田舎道に街灯など有るわけもなく、又方向によっては直ぐに山越えをしなければならない。先頭を歩く者だけが懐中電灯を使い、後は暗闇の中、目を凝らすと微かに見える前を歩く者の脚絆の白い影だけが頼りで、もしここで遅れたらえらいことだと必死になって歩いた。これが又やたらに早い。後に続く者はまるで飛ぶような駆け足になった。中でも困るのは途中で草鞋がぼろぼろになってどうしても履き替えなければならなくなった時である。先頭を行く引き手の者なら一端全員を止めて履き替えられるが、後の者のためには誰も待っていては呉れない。そこで目にも止まらぬ速さで履き替え必死になって後を追い掛ける か、もしくはそのまま辛抱して裸足同様で歩くか何れしかない。特に同方向に別の組があると道が同じになるため、引き手同志が競争になって抜きつ抜かれつのデットヒートを展開することになる。後に続く者はたまったものではない。息を切らし歯を食いしばって、兎も角遅れないように必死に付いて行った。二十キロを二時間半で走破したとか、こっちは二時間二十分の壁を破ったとか、今から思うと何と馬鹿なことに血道を上げていたのかと可笑しくなる。しかし僧堂生活には他に何もないから、煮えたぎるような若さをこんなところで燃焼させていたのだ。托鉢では途中何度も草鞋を履き替え、小さく丸めてそっと道端に置いて行く。藁だからやがて土に還ってゆくので公害にはならないが、そういう破れ草鞋が道端に点々と打ち捨てられていた。
 神淵という所へ托鉢に出掛けた時こんなことがあった。そこは間見峠という大きな峠を越えて漸く集落に入る。一日托鉢を済ませ午後再びその峠に差し掛ったとき、背後から「おっさまー」という老婆の声。振り返ると新しい草鞋を握って追い掛けて来た。朝田圃を見回ったとき古草鞋が畦に捨ててあった。「きっとこのおっさまは裸足で歩いているに違いない。」と急ぎ我が家に帰り早速草鞋を作って、じっと帰りを待っていてくれたらしいのだ。その時も履き替え用を持って行ったので、裸足で歩いた訳ではなかったのだが、しかしこの時の老婆の優しさはいつまでも心に残った。打ち捨てられた草鞋でも人の心を動かす機縁ととなるのだ。

 又僧堂生活で楽しみは春秋両彼岸の大遠鉢である。皆その日が来るのを指折り数えて待っていたものだ。当時は昔からの習慣でその日の宿は一人が少し早めに現地に行きお願いしていた。頼まれる方にすればいきなり遣って来て今夜泊めてくれと言われても、さぞ迷惑なことだろう。だから先方の都合でよく断られることがあった。役目の者はすっかりあてにして行って、「ちょっと都合が悪いの で・・・。」 と言われると、さてこれか らどうしようと思案にくれたこともあった。しかし修行中私は多くの方々の好意を身に余るほど受けてきた。ただ修行をしているというだけで幾多のご厚情を頂いたのである。よく我々の世界では宗盟心という。お坊さんとして何も分からなかった自分を有縁無縁の沢山の人達が支え、育てて呉れ、そのお蔭で今何とかお坊さんとしてやってゆけるのだ。その恩は終生忘れることはない。だから今度は 自分の方からその恩を返してゆかなければならないのだ。これが宗盟心である。ところが最近はその宗盟心を疎かにする者が増えてきた。お返しすると云ってもそこには当然労力も費用も要る。これを惜しむようになったのだ。これは宗門を支える根本が崩れつつあることの証でもある。何も曾ての親切を返せなどという人は一人も居ない。しかし自らを振り返り問い掛けて、何らかの御恩返しをしな ければいられないという気持ちを決して失ってほならないのである。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.