日本は戦後五十年を過ぎ、貧しさから漸く抜け出し、現在の収入は曾ての何十倍にもなった。我々の身の回りは物で溢れ、その日常生活の便利さは驚くばかりで、豊かさと平和の中にどっぷりと浸かっている。それなら何もかもが快適で心充たされる筈なのだが、近頃必ずしもそうではないということが解ってきた。気が付いてみたら、その裏側では知らぬ間に実に多くのものを失っていたからである。その中で一番大切なものと言えば家 族の絆であろう。
もう二十数年も前のことになるが、こんなことがあった。その更に五十年以上も前、アメリカに渡り苦労を重ねて、漸く禅道場を開いた人がいた。その努力の甲斐あって多くの信者さんの支持を得、今ではアメリカの大地にしっかり根付いた。そこで彼の長年の功績が認められ日本で叙勲を受けることになり、八十過ぎの老体にも拘らず、はるばる日本にやって来ることになった。さすがに一人旅は無理だというので五十過ぎの娘さんが付き添って来られた。多分半月ぐらいホテルに逗留されていたと思うが、その間親子で部屋は別々、娘さんは年老いた父親をホテルに放ったらかしにして、勝手に東京、奈良、京都などへと忙しく飛び回って、日本の旅を大いにエンジョイしていた。一方歩くこともままならない父親は折角日本へやって来たのに、終日ホテルの部屋に籠もりっ切りであった。これでは実の親子であっても二人は離れ離れで、何と冷たいことかと思った。しかし彼は「これがアメリカでは当たり前のことなのです。」と少し寂びしそうな顔をして言っておられた。その当時日本をはるかに超える豊かさの象徴であったアメリカの、実はこれがもう一方の姿だったのである。
では今日の日本はどうだろうか。″法を知るものは懼る″という言葉があるが、近頃なんと皆品性が悪くなったことか。世間は兎も角も、我々宗門について言えば、宗教家としての誇りも価値観もかなぐり捨てて、日々自分が豊かに生活できればそれで良しという考え方が蔓延してきている。ちょっと見ると、世間の人はただお金や地位や名誉などだけに狂奔しているかに思えるが、決してそうと ばかりとは言えない。お金を儲けることが目的の商売一つ取っても、ただ自分さえ儲かればそれで良いという訳ではない。時には損して得を取れ″で、企業のメセナなどはその良い例である。物事は大きく考えて目先の利益より、ずっと先の得を取ってゆくのだ。つまり世間には世間なりの苦労があって始めて日々の糧を得ているのである。その苦労も知らずに、ただ薄っぺらな解釈をして″我々 とても人間、霞を食っては生きてゆけぬ ″と、自らの宗教家としての価値観も持たず、ただ図々しくお金の後ばかり追い掛け回している輩は、在家にも劣ると言わなければならない。我々宗教に生きる者は決して捨ててはいけない大切なものがあるのだ。それが法に対する畏れであり、衿を正して自らの立っている足元を見直し、ゆめゆめ低次元な欲に振り回されてはいないか再認識する必要がある。収入が殖え財産も得、学問知識も身につけ、心豊かに幸せな暮らしが約束される筈が、現実は欲の上に欲を重ね、むしろ益々満たされず、行き詰まりを感じているのが実情である。
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