坐禅、朝食、茶礼のあと四十分ほど私が話をするのだが、或る日話が終わって部屋に戻ろうとする私の後を追い掛けるようにKさんが遣って来てこう言った。「あと十年したら出家しようと思いますのでその時はどうぞ宜敷くお願いします。」唐突な話にちょっと吃驚したが、やっぱりそ か!とも思った。というのは、もう十年以上も前に親しい老人から彼のそういう気持を聞いたことがあったからで、その時は随分迷って結局は諦めざるを得なかったようである。しかしその後も彼は志を曲げることなく孜々兀々と地道な努力を続け、いよいよ決心を固めたに違い ないのである。
中国の高僧、趙州(じょうしゅう)という人は六十才で出家、八十才になってお悟りを開き、それから百二十才まで明師を訪ねて諸国行脚をされたという有名な話が残っているが、私の頭に直ぐさまそれが浮かんだ。また私が尊敬して止まなかった智香さんという尼僧さんも五十を過ぎてから出家され、八十才で亡くなられるまで修行を続けられた。これらの人と同様に彼の場合もそんな歳になってようやく機縁が熟したということなのだろうか。人生の節目節目に葛藤し悩みながらきて、こういう選択をしたのだから我々門外漢がとやかくいう筋合いではない。しかしそれにしても人生の黄昏どきを迎える年令になって新たな決意を起こし、修行の道を志す情熱には頭の下がる思いである。二度とない人生なのだから自分の思い通りに生きたいというのは人間として当然のことで、その通りに実現することを願わずにはいられない。
しかし一方ではこうも思った。物事には全てふさわしい時期というものがあり、人生にチャンスはそう何度も訪れるものではない。ここぞと云うときに蛮勇を奮い一歩を踏み出す勇気がなければ駄目なのだ。全て丸く納まってからなどという考えでは虫が艮すぎる。思い立ったならば、何と非難されようが自分の行き方を貫き、少なからず血を流さなければ思いは遂げられるものではない。彼は或 はこう思案したのかもしれない。あと十年すれば子供たちも独り立ちして親の責任からも解放される。そうなれば後に憂いを残さず出家できる。
以前こういう話を聞いたことがある。お坊さんになるのに一番理想的なのはお釈迦さまが歩んだのと同様の道をたどることだ。まず家庭的には優しい両親に恵まれ経済的に何に不自由なく、その時代の最高の学問を身につけ、年頃になったら美しい妻をめとり、子供をもうけ幸せな家庭を築く。普通ならこれで我が人生事足れりというところだが、しかしそれだけで人生を終わることに大いなる疑問を感じ、やがて生老病死の苦しみから抜け出すため、或る日妻子を捨てて忽然と出家する。その後明師を訪ね難行苦行の末お悟りを開き、立派な僧侶となって、ついには捨てた家族の帰依も受けるようになる。
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