この様にして五感に磨きをかけることによって近代科学文明は産業革命以来効率 的で便利で快適な社会を作り上げてきた。これはひたすら外界に向かって究め尽くしていった結果もたらされた産物に他ならないのであって、この点に異論を挟む余地などないように思える。しかし近年様々な問題が起こってきた。医学の方面で言えば、臓器移植の問題から、人間の死は一体どこから死というべきなのか?死の判定にいろいろな議論が起こってきたのである。一つ間違えれば、まだ 死と判定できていない人間からでも勝手な都合で臓器を摘出してしまうということになりかねないわけである。
もっと便利でもっと快適な生活をとただ追い求めた結果、膨大なエネルギーが消費され、それにともなって様々な公害、大気の温暖化、産業廃棄物等々数え上げたら切りがないほどの困った問題が噴出してきた。さらにそういった直接的な事柄に止まらず人心の荒廃や環境ホルモンなど、このままいったら人類はどうなってしまうのだろうかと危惧される。ここで思うのは我々がしゅく王と忽王と同じようにどこかで大きな間違いを犯してい るのではないかということである。
皆さんはこんな経験をされたことはないだろうか。所用で二、三時間電車に揺られて出掛ける。昔とちがいゆったりとシートに体を沈め、外の景色を眺めたり本を読んだり快適そのものである。それなのにどこか疲労感が残るのは何故だろうか?これは人間の感覚のある部分が盛んに使われて、したがって疲れるのだといわれている。現在の効率的で快適だと思い込んでいる日常を改めてよく見つめ直してみると時間も空間もすべてが人工的に作り出されたものであることが解る。新幹線で二時間足らずで行ける東京は、実は三百キロ、二十日間ぐらい掛けて行くべきところなのである。この三百キロという空間が持つ本来の姿を我々は効率一辺倒で切り捨ててきてしまった。その歪みが不思議な疲労感となって我々のからだの中を漂っているのだ。時間もしかりで、時計がコチコチと刻む一秒の 積み重ねが、二十四時間になるという理解は人工的な時の計り方だ。その証拠に興味あることに熱中しているときの一時間と嫌なことをだらだらと過ごす一時間とは全く違うではないか。
私は二、三年前から四国遍路を歩いて巡っている。平均時速四キロで、一日中歩き詰めに歩いてもせいぜい二十二、三キロほどである。途中何度も休みながら汗を拭き拭きゆく、草鞋で大地を踏みしめ、時にはじりじりと太陽を浴び、又一陣の涼風が頬をなぜ、或は雨に打たれながらとぼとぼと行く。ただこれだけなのに不思議と心が癒されるのは何故なのだろうか?それは多分天然の時と空間の中に身を置いたからではないだろうか。我々は生まれたときからずっと人工的な歪められた環境の中で暮らしている。そのため、無用な軋轢が知らぬ問に自分の体の中に蓄積され、それが疲労感となっている。今こそ我々は大自然のリズムのなかに身を置き、等身大の時間と空間へ回帰しようと努力しなければならない。
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