2001年2月 混沌未分
 
 混沌王は世界の中心にいる。東にはしゅく王、西には忽(こつ)王がいて、ある時三人が集まって会議をした。会議が終わってからしゅく王と忽王は相談して混沌王への感謝の印として何か差し上げることにした。そこでなにしろ混沌王は顔がずんべらぼうだから、眼耳鼻口、合計七つの穴をあけてやろうということになった。順番に穴をあけていって七つめをあけたら混沌王は死んだ。この話は荘子という書物の中にでてくる一節であるが、一体どういう意味なのだろうか。
 我々は眼や耳や鼻などの五感を通して外界と繋がっている。例えば見るということを限りなく究めてゆき、微細なものを追求してゆくことによってウイルスを発見し、それによって不治の病を克服し、多くの命が救われた。又聞くということを芸術的に究めてゆくところから数々の名曲が作り出され、そのために我々は快い音楽を楽しむことが出来るのである。

この様にして五感に磨きをかけることによって近代科学文明は産業革命以来効率 的で便利で快適な社会を作り上げてきた。これはひたすら外界に向かって究め尽くしていった結果もたらされた産物に他ならないのであって、この点に異論を挟む余地などないように思える。しかし近年様々な問題が起こってきた。医学の方面で言えば、臓器移植の問題から、人間の死は一体どこから死というべきなのか?死の判定にいろいろな議論が起こってきたのである。一つ間違えれば、まだ 死と判定できていない人間からでも勝手な都合で臓器を摘出してしまうということになりかねないわけである。
 もっと便利でもっと快適な生活をとただ追い求めた結果、膨大なエネルギーが消費され、それにともなって様々な公害、大気の温暖化、産業廃棄物等々数え上げたら切りがないほどの困った問題が噴出してきた。さらにそういった直接的な事柄に止まらず人心の荒廃や環境ホルモンなど、このままいったら人類はどうなってしまうのだろうかと危惧される。ここで思うのは我々がしゅく王と忽王と同じようにどこかで大きな間違いを犯してい るのではないかということである。
 皆さんはこんな経験をされたことはないだろうか。所用で二、三時間電車に揺られて出掛ける。昔とちがいゆったりとシートに体を沈め、外の景色を眺めたり本を読んだり快適そのものである。それなのにどこか疲労感が残るのは何故だろうか?これは人間の感覚のある部分が盛んに使われて、したがって疲れるのだといわれている。現在の効率的で快適だと思い込んでいる日常を改めてよく見つめ直してみると時間も空間もすべてが人工的に作り出されたものであることが解る。新幹線で二時間足らずで行ける東京は、実は三百キロ、二十日間ぐらい掛けて行くべきところなのである。この三百キロという空間が持つ本来の姿を我々は効率一辺倒で切り捨ててきてしまった。その歪みが不思議な疲労感となって我々のからだの中を漂っているのだ。時間もしかりで、時計がコチコチと刻む一秒の 積み重ねが、二十四時間になるという理解は人工的な時の計り方だ。その証拠に興味あることに熱中しているときの一時間と嫌なことをだらだらと過ごす一時間とは全く違うではないか。
 私は二、三年前から四国遍路を歩いて巡っている。平均時速四キロで、一日中歩き詰めに歩いてもせいぜい二十二、三キロほどである。途中何度も休みながら汗を拭き拭きゆく、草鞋で大地を踏みしめ、時にはじりじりと太陽を浴び、又一陣の涼風が頬をなぜ、或は雨に打たれながらとぼとぼと行く。ただこれだけなのに不思議と心が癒されるのは何故なのだろうか?それは多分天然の時と空間の中に身を置いたからではないだろうか。我々は生まれたときからずっと人工的な歪められた環境の中で暮らしている。そのため、無用な軋轢が知らぬ問に自分の体の中に蓄積され、それが疲労感となっている。今こそ我々は大自然のリズムのなかに身を置き、等身大の時間と空間へ回帰しようと努力しなければならない。

 ところでこの様に申し上げても、では現在の生活を離れて具体的に何が出来るのかということになる。もう太古の昔に戻ることなど出来はしない。やはり文明の利器に頼らざるをえないのが現状である。そこでひとつ申し上げたいことは、もう一度人間のあるべき姿と環境を見つめ直して頂きたいということである。ただ漫然と現在の快適さの中に埋没して良しとするのではなく、双方の折り合いを上手につけながら軌道修正をして大きな間違いを起こさぬようにする。常に天地自然の恵みに感謝して、各々が自然のリズムに波長を合わせる。つまりこれが混沌未分の世界に生きることに他ならない。これこそが二十一世紀へ向かうひとつの貴重な活路となるのではないだろうか。

 

 

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