2001年3月 一喝
 
 杭州の径山寺(きんざんじ)には常に五百人もの修行僧がいた。こう聞けばさぞ盛大で活気溢れるように思えるが、内実は誰一人として真剣に坐禅修行や参禅問答に骨を折る者もなく、三々五々頭を集めては駄法螺を吹いたりお経を詠んだり念仏を唱えたりという有様であった。困り果てた和尚が黄檗禅師の処へ相談にやってきたところ、高弟の一人臨齋禅師が派遣されることになった。出発に際して黄檗禅師が「ところでお前は先方へ行ってどういう風にするつもりか?」と尋ねた。すると臨齋禅師はこう答えた。「むこうへ行ったら行った時のことです。ちゃんと手立てがありますから。」
 さて径山寺へやってきた臨齋禅師は行脚の姿のまま挨拶もろくにせず、いきなり法堂(はっとう)に入った。先方の和 尚が変な奴がやってきたなと、ふっと頭 を上げたその瞬間″喝!″と頭から浴び せ掛け、次にまた何か云おうと口をもぐもぐっとさせた途端、さっと袖を打ち払って出て行ってしまった。

周囲の修行僧たちは呆気にとられて、やがて中の一人が進み出ると、「ただ今のやりとりは一体どういうことなのでしょうか?私には何が何だかさっぱり訳が解らないのです が。」と尋ねた。すると和尚は「今の奴はな〜黄檗禅師のところからやってきた者で、どういう腹なのか知りたいなら彼に直接尋ねたら良い。」こうして、山寺の五百衆、大半分散す!臨齋に対して何 の働きもできず、弟子たちに対しても何の一句も与えることができなかった馬鹿和尚に就いて修行なんかしていられるかい!ということだろうか。これは臨齋録の勘弁のなかの一節である。
 この中に出てくる″喝″というのは一般にもよく知られたもので、以前テレビのコマーシャルにも登場したことがある。しかしこれは決して単に″気合いを入れるための大声″というようなものではない。この一喝とは禅の究極、ぎりぎりのところを端的に表現したものであり、もっと詳しくいえば、なかみは四つほどある。その働きによって分けられていて、第一は金剛王宝剣、つぎに踞地金 毛の獅子、探竿影草、一喝の用を作さず、 である。ある時の一喝はどんなものでもあっという間に切ってしまうほどの凄味のある刀のようであり、又ある時は獲物を狙う獅子が今まさに飛び掛からんとする威力であり、ある時はおびきよせるはたらきをし、又ある時の一喝は一喝のはたらきさえしないというものだ。真の禅僧ならこの時の臨齋の喝がどれかを瞬時に見分け、ふさわしい対応ができなければならない。それなのにまだ口をもごもごさせているようではこんな馬鹿、いつまでも相手にしておれるかい!とばかりにさっさとその場を立ち去られてもしかたあるまい。
 私がまだ道場で修行中の折り、大きな法要があった。沢山の寺院方や一般壇信徒のお参りがあって寺じゅう大賑わいであった。たまたま私は役目がら客の応対や電話番、会計係で本堂行事には参加できなかった。そこで一時間半ほどの法要が終わると、私の部屋にやってきた和尚さんがこんなことを言った。「きょうの本堂での法要中、後から二人の老師を見ていたが、一人は頭がふらふら動いて、もう一人は一時間半の間少しも動かなかった。うちの道場の法はあの動かなかった人の処へ行ってしまった!」 いったん坐ったら何時間だろうと微動だにしない。ここに禅の宗旨があらわれているのだという。老師となって人の上に立つということはこういうことかと思った。
 或る日百丈和尚のところに居士の一人がやって来てこう言った。「今度私は山というところに大道場を作った。ついてはそこの指導者としてふさわしい男を一人推薦してください。」そこで百丈は道場で一番古参の者を呼んだ。すると居士は、「ちょっと恐れ入りますが私の前を歩いてください。つぎに咳払いをしてください。」と言う。呼ばれた修行僧がその通りして下がって行くと、居士は 「どうも相応しくありません。誰か別の人を。」と云うので次に呼ばれたのが典産(てんぞ) の霊祐であった。再び同様のことをさせると、今度は「この人なら申し分ありません。」といういとであった。彼こそ後に弟子の仰山と共に仰宗の開祖となられた山霊祐禅師である。

 今いくつかの話を引用した通り、禅はぺちゃくちゃと喋って伝わるものではない。徳利は中にいっぱい酒が入っているか若しくは全く空っぽなら振っても音はしない。底のほうに少しばかり入っているのは振るとしゃぴんしゃぴんと喧しいものだ。今の時代は何でも口数多く、人を押し退けてもべちゃべちゃと賢そうに喋りまくる者の方が珍重されるが、我々禅の宗旨は論より証拠、机上の空論ではない。実践を通して人の前に明らかに指し示してゆける者こそが真の禅僧と呼べるのである。

 

 

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