その分お手軽価格で口当たりもソフトで馴染みやすいかも知れないが、美的感受性はやせ細る。人々の美的体力は衰え、薄められたものや表向きの雰囲気に反応するだけがやっととなる。そして精神は衰え、やがて衰えへの自覚症状も失われ、それは政治や経済の破綻へと繋がってゆく‥。」
ところで私は一昨年ロンドンに住む友人の案内でパリから南西へおよそ百五十キロほどの田舎町、ツールと言うところへ行って来た。このあたりには古城が点在し、古い教会もいくつか見られた。彼の案内で訪れた中でも、特に印象深かったところがある。それは集落の片隅にある殆ど朽ち果てた教会を訪ねたときである。鬱蒼とした草むらをかき分けたどり着くと、その教会は殆ど壁面しか残っていなかった。しかし友人はじっと佇み何時までも眺めていた。何だろうと聞くと彼は、「あれをご覧なさい!」と言った。そこには天井の一部に描かれたフレスコ画が微かに残っていた。こんなに素晴らしい絵が描かれていた教会は創建当時はさぞ立派だったに違いない。こういうすごい教会を建てたこの地方の人たちの信仰の力を感ずるのだと言った。また帰路、ツール市街に屹立する巨大な教会をお詣りした。ざっと中を眺めて出口に差し掛 かり振り返ると友人の姿がない。何をぐずぐずして居るのかと再び奥へ引き返すと、彼は沢山のステンドグラスの一つをじっと眺めて何時までも動かないのだ。「何なのだ!」と再び尋ねると、「あれをご覧なさい!」とまた言う。そこには二人の修道僧の布教の場面が描かれていた。「あの目を見てください!パワーがあります。」それは十六世紀頃のもので、この時代のステンドグラスは職人たちも単に仕事として作るのではなく、深い信仰 の証として心を込めて作っている。だから何百年経ってもその込められた力は失われず、現代の我々にもダイレクトに伝わってくると言うのである。残念ながら私にはいまひとつ理解できなかったが、二人の修道僧のぎょろ!とひんむいた大目玉の、その輪郭のごづごつした感じは、言われてみれば何かしら力を感じる。私もロンドンを訪れたときにはいつも大英博物館別館の手書きの聖書を見ることにしている。一点一画も疎かにせず律儀に 書かれた聖書をじっと見ていると、たとえ宗教は違っても道を求める者の力がひしひしと伝わってくるからだ。
まがいものの薄められた美と言うことで思うのは、最近の住宅建築である。岐阜市街で建築される住宅の殆どは何とかハウスの建物で、まず鉄骨で構造を作りその上を合板で覆う。三ケ月もするとあっという間にイギリス風やカナダ風が建てられる。既にいろいろな建物がごちゃ混ぜの市街地では、こちらの見る目が麻痺しているせいかさほど感じないが、ちょっと郊外に出て、辺りは田畑が美しく広がる田園風景の中にこういうのが建っていると、その不釣り合いな感じは何とも変なものだ。日本では消防法や耐震性さえ確保されていれば外観は問わないからこういうことになるのだろう。しかし嘗て日本にはその地方独特の伝統的な建築があり、それは気候風土や周囲の環境とぴったり寄り添っていた。作る大工さんも土地の人で地元の材木を使いその土地伝統の工法で作るから自然に集落全体が一つのものとして形作られ、独特の雰囲気を醸し出していた。
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