ところが二月制間になり気持ちを尋ねてみると修業への堅い意志は変らず、これならやれそうだと思い、正式に私の弟子として本山へ届け出た。
それから一人の雲水として修業が始まったわけである。坐禅やお経を覚えるのは勿論のこと法式など、小さいときからの基礎が出来ていない彼には、どれ一つ取っても身に付くまでには並大抵のことではない。しかも修業を始めるには少々遅い年齢での出発だから、動作も頭の回転も万事に渡って鈍いのは止むを得ないところがある。自分の子供ほども違う若者に叱られながら、頭を下げ下げ教えを請うという日々が続き、三年、四年と月日が経つうちに大分お坊さんらしくなってきた。ところが五年目を過ぎ、高単だった者も順次道場を去ると、今度は自分が新しく入門してきた雲水を指導して行く立場になった。するとどうもその指導方法に首を傾げたくなるような面が出てきたのだ。本人は至極真面目なのだが、彼の中に染み付いた在俗的空気が僧堂には合わなくなってきたのであろう。このまま放置するわけにもゆかずある日、本人を部屋に呼んだ。「さてこれからどうするかな〜」といろいろ話し合いをした。そんな中から最善の方法を見いだせれば良いと考えたからである。いずれにせよ、もう一度修業を根本から見直す必要がある。結局本人の希望も入れ諸国行脚の旅に出すことにした。その時彼は既に五十歳半ばを過ぎており、これは相当厳しい試練になるだろうと思われた。
それから四ケ月が過ぎた五月下旬、僧堂へ戻ってきた。これは毎年二十八日・二十九日の二日間、僧堂創建祖師の毎歳忌があり、その為の荷担に行脚を一端中断してきたのである。久しぶりに会って見た彼の顔は実に爽やかで、早速四ケ月間の行脚の様子を尋ねてみた。二月、岐阜を出立し山陽道を西に向かい、九州へ渡り大分・宮崎・鹿児島・熊本・長崎・福岡と一巡した。下関から今度は日本海側に廻り丁度出雲まで来たところだという。毎日村々を托鉢し、夕方になれば行き先の木賃宿に泊まり、また翌日は早朝より歩き始める。食事は殆どコンビニのおにぎりで、それを囓りながら歩き続けたという。体力的にさぞ大変だったのではと問うと、朝の歩き始めはちょっと辛いが、エンジンが掛かり出すと後はスムーズに歩けると言うことだ。しかし雨が降ろうが風が吹こうが途中で止まる訳にいかない。丁度自転車をこいでいるのと同じで止めたらばったり倒れてしまう、背水の陣なのだ。
九州のある村を通りかかった時、一人の老人に呼び止められた。何だろうと振り返ると、「これから儂に付いて来てくれ。あなたにお経を誦んで貰いたいところがある。」と言う。案内されるまま老人に従うと、人気の無い鬱蒼と茂る山裾に幾つもの無縁墓が並んでいる所に着いた。聞けば嘗てこの近くに炭坑があり大いに栄えていたのだそうだ。此処は女郎宿の有った場所で、儚く死んだ女郎さんの墓だったのだ。今となっては誰も詣でる者も無く、捨てられたように草に埋もれていたのである。懇ろにお経を誦むと、老人は大変喜んで何度も頭を下げたと。
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