2004年1月 臨終定年
 
 二十年前私が初めてこの寺の住職としてやって来たとき、先住さんから会計を渡された。見ると引継ぎ帳の残高はたった二万数千円であった。目前には四先師の合斎会が控えており、引き物の請求書が来て、直ぐにも支払わなければならない。しかしそんな大金は何処にも無かった。仕方なく先住さんから借金をし、斎会は何とか無事に円成することが出来た。それから暫くして総代さんから、この際きちんと会計士を入れ、又土地の管理も 専門家に任せた方が良いのではないかと進言を受けた。もとより私も望むところで、早速それぞれ信頼の置ける方々をご推薦頂いた。
 不動産管理は地元銀行の傍系会社にお願いすることになった。社長さんは元の総代さんで、そのご縁もあり手数料は通常の半額にして頂いた。間もなくして、「この方がこれからお寺の担当になります。どうぞよろしく。」と一人の老人を紹介された。見ると既に定年はとっくに過ぎておられるようで、頭はつるつるに禿げ上がり、失礼ながらおよそ風采のあがらぬ人であった。瞬間手数料半額というのがひびいたかな?と思った。

 ところがいざ仕事が始まりだすと、実に綿密で親切なのには驚かされた。それまで曖昧だった契約はきちんと書類を作成し、土地に絡む難題もそのお爺さんにかかると不思議に丸く収まった。ともかく交渉事は足を運んで説得するといった骨身を惜しまぬ仕事ぶりには、ほとほと感心させられた。
 こうして十年ほど過ぎる頃には持病の糖尿が悪化したり、その上更に交通事故にあって撥ねられたりで、一時はもう仕事は無理ではないかと危惧された。ご本人も会社に迷惑は掛けられないと、その度に辞表を出すのだそうだが、会社の方で辞めさせてくれないというのである。木枯らしの吹き抜ける季節などは寺の長い参道をよろよろしながら上ってくる姿は、今にも風に吹き飛ばされそうである。そこで上等な傘を買い求め、「藤川さん、 これを差し上げますので、晴れた日は杖代わりにして、雨が降ったら傘として使って下さい。」と差し上げたこともあった。そんなふうで八十歳を過ぎても依然として仕事に精出しておられたが、さすがに何度目かの入院後は通勤もままならなく成ってしまった。今度こそ辞めさせて下さいと会社に頼んだところ、「体は多少不自由でもその頭脳を貸して下さい。」ということで、平社員にも拘わらず毎日社長さんの車で送り迎えまでして貰っていた。
 今、世の中はサラリーマンにとって大変厳しい時代で、何時リストラされるか分からない。だが本当に価値のある人間は会社が手放しはしない。この藤川老人のように、何十年という蓄積は余人を持って代え難いのである。土地にまつわる仕事は必ず欲が絡んでくるのだが、そういう厳しい遣り取りでも実に良く人間というものを知っていて、自然にうまく纏めてしまう。人柄ということもあるのかも知れないが、不思議な力を持った人だった。九十歳を過ぎ、ついに会社へ出勤することも出来なくなってしまった後も、社員は難しい問題になると相談に来て、智慧を借りていたそうである。結局死ぬまで現役を貫かれたのである。私は今でも何とも不思議な魅力を持ったこの老人を忘れることができない。
 ある人にこの話をしたら、実は私にも最近こんなことがありましたと面白い話を聞かせてくれた。ある時京都の祇園で豪華に芸妓さんを呼んで遊ぶことになった。ところがやって来た奇麗どころはと見れば、何と超老齢。よろよろしながら部屋に入ってきたのを見て思わず「こりゃ〜ひでーのに当たっちゃったな〜!」と思ったそうだ。しかしいざ二、三杯、杯を交わして三味線を弾きながら謡いだすと背筋はしゃきっ!とし、またその声の素晴らしいことと言ったら無い。合間の会話にしても、実に心の機微を知り抜いている。ああいう世界の人は人間の赤裸々な面を見ているだけあって話の奥行きも深く、これにはほとほと感心させられたと言っていた。

 私がこの寺に来て早や二十年が過ぎたが、一般的に言えば住職二十年などはさして長いとは言えない。それでも日々師家としい若い雲水の相手をするのは、これで結構しんどいものだ。七十歳くらいが限界かな〜などと知らず知らず自分の内で勝手に決めていた。しかし近頃はこの二人のように幾つになってもその道のエキスパートとして揺るぎない価値を持ち、他に影響を与え続けることが出来ることほど人間として幸せなことはないと思うようになった。我が僧堂の大先輩松原泰道師は九十六歳の今も日本国中布教に巡られ、執筆活動も盛んにされている。その中で 「生涯現役臨終定年」と文章に書いておられた。こういう良き先達を手本にして、私も生涯現役で頑張らなければならぬと感じたのである。

 

 

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