2005年3
月 一茎草を将って金身と作す
十数年前、ある会下会(えかかい・僧堂の同窓会)に出席した時のことである。それは鎌倉の建長僧堂湊素堂老師が十八年間の師家を終え、新たに京都建仁僧堂の師家に替わられた。当時建長寺の管長も兼務されており、それらを全て捨てて再び一介の師家と成られたのは異例のことであった。建長僧堂時代、老師の下で修行していた者にとっては、ある日突然仕えていた老師が居なくなってしまったのだから、まるで見捨てられたようなも のである。そういう気分の折り、鎌倉方面の有志が発起人となって、一夜素堂老師を招き、直属の会下会大徹会≠ェ箱根で催された。私は建長寺塔頭に住職した縁もあり、建長僧堂にもお世話になっていたので、大徹会の一員として参加させて貰った。皆久しぶりの再会で大いに飲み騒いで旧交を温めた。その折り大変印象深いことがあった。
それは会の初めに素堂老師が次のように挨拶されたことである。「…皆さんが僧堂在錫中は罵詈雑言を浴びせ、また頭突きなどもしまして大変申し訳ないことでございました。大切な寺のお弟子さん方に対してそのようなことを致しましたのは今思えば本当に済まないことだと感じております。どうぞお許し頂きたいと存じます…。」これには驚いた。僧堂の師家は雲水は対しては有無を言わせず指導し、雲水の方も何を言われようが只ひたすら仕えてゆくものである。確かに現在はそれぞれ一寺の和尚となっているのだから、雲水時代とは違った対応といえばそうかも知れないが、現在の立場が何であろうがそんなことは関係なく、老師というのは終生絶対の存在なのである。ましてや素堂老師は僧堂を替わったとはいえ、まだ現役の師家としてばりばり活躍されていた時代である。冒頭のこの挨拶には本当に驚かされた。
その時ふっと碧巌録の次の一節が頭に浮かんだ。一茎草(いっきょうそう)を将って丈六の金身(こんじん)と作し、丈六の金身を将って一茎草と作す¢m堂修行というと大抵の人が直ぐに、「それは何年間ぐらいなのですか?」と聞く。修行に元来年限などない。一応入門時には大事了畢=iだいじりょうひつ)まで頑張るという大層な誓約書を持参するが、大事了畢といえば大体二十年は掛かる。最初からそう思ってこの誓約書を持 ってくるものなど一人もいない。強いて言えばそういう覚悟で修行を致しますのでどうぞ宜しくという程度なのである。しかし約束は約束なのだから守るのが前提で道場は成り立っているのだが、三年も修行すれば鬼の首でも取ったくらいに思って大手を振って帰って行くのが現状である。もし師家の方でなお一層の修行を、と留めようものなら、「何故返さないのだ!勝手なことを!」とこちらが叱られてしまう。これは現在私が遭遇している一端を申し上げたのだが、素堂老師にしても全く同様な思いで鎌倉十八年を過ごされたに違いない。それを承知でこのように挨拶されたことに、深い意味がある。これを単なるお追従ととったら間違う。その時の老師にはそのような世俗の価値観などさらさら無かったに違いない。真実そう思って自然に言われたのである。ここに私は師家としての高い見識と心の奥深さを感じた。
また別の機会に同様な会下会に出席したことがある。夜、宴会が催され大いに飲み歌い盛り上がった。此処までは大徹会と同じなのだがその翌朝こんなことがあった。朝食に何人かの者が遅れてやって来たのだ。途端に老師が怒鳴り上げ叱り飛ばした。在錫中はろくな修行もせず、さっさと帰りゃ〜がって、又此処でも俺を待たせるとは何事だ!ふざけるな!″であろう。
人にはそれぞれ持ち味があり、それが個性なのだから簡単に善し悪しは言えないが、単なる性格の違いと捉えるのではなく、もっと深く宗旨に於いてどうなのだろうかと考えたとき、私は素堂老師の方が優れているように思う。それは裏返せば肩書きや地位などにとらわれず、対するものの本質と直に向き合い、ある時は一茎草と作しある時は丈六の金身と作して行く自由自在の禅働が素晴らしいと感ずるからである。一茎草を将って一茎草と作し、丈六の金身を将って丈六の金身と作すというのでは禅とは言えない。何故ならそれは所詮世俗の価値観に過ぎないからだ。
人のことはさて置いて、私自身はどうだろうかと考えた。結論から言えばまだ到底素堂老師のような境界には及ばない。今でもその時の情景が鮮やかに浮かんでくるたびに、尚一層精進して少しでもこういう境界に近づきたいと念じている次第である。先日新聞を読んでいたら日本画家の高山辰雄氏の言葉が深く心に染みた。「…私はうまさから逃れるために十年間悪戦苦闘しました…。」九十歳を超えて尚努力される姿に深く感銘を承けた のである。
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