2005年4月 一念

 
 私は健康のために毎日散歩をしている。 コースは山裾の小路を歩いて伊奈波神社の本殿にお詣りし、折り返す一時間コースである。伊奈波神社は鳥居をくぐると両側は鬱蒼とした森に囲まれ、緩い登り坂の参道をさらに進み、最後数十段の階段を上り詰め本殿に至る。このアプローチは誠に見事という他なく、自然に心が癒される感じがする。
 毎日こうしてお詣りを続けていると、いろいろな場面に遭遇する。ある日こんなことがあった。境内の桜は満開、心地よい春風に吹かれながら本殿の階段を上った。すると既にお詣りを済ませた若いカップルが、右脇の敷石に腰を下ろしていた。そのうちの娘さんのほうが思わず「ああ!気持ちが良い!」と言った。まったく同感である。それは必ずしも頬を撫でる春風ばかりではなく、お詣りをした後の清々しさもあったに違いない。しかし彼らは神の存在とは何かとか、伊奈波神社のご神体は何なのかなどという、難しい理屈など殆ど考えもしないだろう。それでも無意識のうちにちゃんと神と相対し気持ちよかったのである。
 又ある年の暮れ、木枯らしの吹き付ける午後のことである。中学生くらいの男の子がお百度詣りをしていた。初めは陸上競技部の生徒が訓練でやっているのかと思った。しかし冷たい敷石を素足で駆け上がり、本殿前では一回一回ちゃんと柏手をしてお詣りをし、再び参道入り口の鳥居を目指して駆けていった。これは間違いなくお百度詣りをしているのである。しかし何故こんな若い子がお百度詣りなどという古典的な方法を選んだのだろうか。何れにしても相当深刻な願いを心に秘めてのお詣りに違いないと察せられた。何もこの子ばかりではない。人間誰でも願い事を持っている。その達成のためには様々に計画を立て努力も積み重ねる。しかし思うようには叶えられないのが常である。しかしその一方で大して努力もしないのに恰も棚からぼた餅が落ちてくるように幸運に恵まれる人もある。我々は常にこういう理不尽な目に遭いな がら暮らしているのである。
 こうなると一般的には願いが叶えられない不運を、どこかで人間を越えた力の存在に求めるようになる。所謂新興宗教が人々に支持される素地は此処にある。だからいけないのだと短絡的に言うつもりはない。しかし人智を越えた何ものかを、空中浮揚に求めたり誤魔化しの祈祷に求めたりするのが間違っているのである。
 先日ひょんなことから高山市内の或る新興宗教の総本部にお詣りさせて頂いた。巨大な本殿には何と一万人も入れるということだった。中央祭壇には黄金に輝く神殿が安置され、その下には巨大な水槽が在って、何十匹もの美しい緋鯉が悠々と泳いでいた。神聖な祭壇に緋鯉という取り合わせに少々驚いたが、傍らに居た案内役の娘さんに聞いたところ、万物創造神の象徴なのだそうだ。我々も八百万の神というから緋鯉でも何でも良いようなものだが、一般的に鯉は池に泳いでいるものだ。それは兎も角至る所黄金に輝いた装飾、深紅の絨毯、高い天井、目映いばかりのシャンデリア等々、これらは全て人間を越えた何ものかを具体的なかたちで見せる仕掛けと感じた。この中に一万人もが詰め掛けたら、さぞやそのパワーはもの凄いだろうと察せられる。
 その時ふっと碧巌縁第一則、達磨大師と梁の武帝の問答を思い出した。それは次のようなものである。武帝は達磨大師に問う、「仏法の根本は何ですか。」達磨は答えて、「からりとして何もありません。」「それでは私の前に居る者は一体何ものですか。」「識りませんな。」さてこの双方一向噛み合わない遣り取りの何処に禅が表されているのだろうか。
 先ほど人間を越えた何ものかと言ったが、禅で言えばこれは人間存在の根本は何かということになる。それは結局何もないのだ。それでは身も蓋もないと思われるかしれないが、もし何かあるとしたら、人間を越えた摩訶不思議な力を勝手に妄想し、その御利益に預かりたいと虫の良いことを考えている浅はかさがあるだけだ。恰も極楽行きの電車にでも乗って楽々幸せ世界に連れていってくれるなんぞと思うのが間違いなのである。
そんな要領の良いことを考えずに、まず大いなる願いを持って、いつか屹度実現したいと深く心に刻み、努力する一途な思い、すなわち一念≠アそ当に人間を越えた力なのである。その他に何も有りはしない。何百億という大金をつぎ込み大伽藍で荘厳せずとも人間一人の居る場など半畳あればこと足りる。禅堂のその半畳の単布団上で人智を越え、三千大千世界を構築してゆく。ここに情塵意想計較得失是非はない。一時に浄尽すれば自然に体得できるのである。しかしこれは他を頼りにして得られるものではない。一重に自らの精進努力以外にないのだ。
 

 

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