2005年6月 戒律

 
 奈良の唐招提寺は皆さんも良くご存じの通り、鑑真和上によって開かれたお寺である。西暦七五三年、栄叡と普照という二人の日本僧侶から、伝戒の師として日本へ渡って欲しいと懇願され、自ら決意、数回の難破で遂には失明されたにも拘わらず我が国に戒律を広めようと来朝された。これは井上靖著天平の甍″という小説でも夙に有名である。また前進座が同名の舞台公演を四十年来続け、多くのファンを魅了していることで一層広く知られるところとなった。近年では日本画家の東山魁夷氏の障壁画が人々を引きつけ、益々我々の身近な存在となった。このように唐招提寺と鑑真和上について、その周辺の事柄は世に広く知られてはいるものの、では鑑真という僧はこれ程までの苦難を乗り越え日本に来て何をされたのかという話になると途端に解らなくなる。どうも日本人は肝心な中身の議論より波瀾万丈の物語が好きなようである。きっと今頃、鑑真和上も眉をひそめ、自 分のことを取り上げてくれるなら、そんな来朝までの苦難の話より、日本へ来てから何をしたかを人々に伝えて欲しいものだと思っておられるに違いない。
 さて戒律の行を求めて唐に渡った留学僧の栄叡と普照は七四二年の初冬、揚州郊外の大明寺を訪れた。仏法は東流したが、日本にはまだ伝戒の師が居ないこと、聖徳太子が二百年後聖教が興ると予言したこと、など二人は切々と語り、鑑真の弟子を是非とも日本に遣わしてくれるように懇願した。和上は、「是は法のためなり、何ぞ身命を惜しまん。諸人去かずんば、我れすなわち去かんのみ」と。二人の青年僧の熱い思いに感激され大慈悲 心をもって自ら日本へ渡る決意をされた。 この時和上の心を覚悟させたのは日本での僧伽(さんが)の創設であったと思われる。少なくとも律を学ぶには受戒の後五ヶ年間の学習が必要とされるのだが、日本にはまだそういう律の教育を受ける場所も運営のための財政的基盤もなかった。それから十二年間の長きに渡って、過酷な障害にも屈せず初志を貫かれ遂に我が国へ来られたのである。その使命感の深さには頭の下がる思いである。七五 三年、来朝され、一年後に東大寺に国立の戒壇院が建立された。中国に模してまさに国家事業として建てられたのである。
 では鑑真が苦難の未、中国から日本に導入しようとした戒律とはいかなるものだったのだろうか。まず正式に僧侶になるには受戒式と戒律の伝授が不可欠であった。資格のある十人の僧侶のもと、沙弥は具足戒を授かり、それを守ることを一つ一つ誓い、僧侶の資格を審査、承認される。しかしこれは僧侶になる出発点に過ぎず、更に五年間、僧伽に属して戒律の講義を受け勉強する。月二回の布 薩会(ふさつえ)”という儀式にも参加することが義務づけられている。重要な条文が読み上げられそれに違反していないか各自が反省し、もし違反していたら告白する。犯した罪の内容によって僧伽における自分の処遇が決定される。僧伽の運営維持は建物だけではなく講師の経費、さらに学僧の授業料や生活費なども不可欠である。そういう経済的支援をしないと、中途で断念する者が出てしまう。兎も角勉強できる環境を作り、将来にわ たってきちんと保証してやりたいと心から願ったのである。しかし皮肉にも建物は揃ったが肝心の戒律の講義や研究は鑑真亡き後たった三十年で次第に行われなくなってしまったのである。鑑真が我が国に導入しようとした『四分律』は比丘は二百五十戒、比丘尼は三百四十八戒という大変な数の戒律である。私たちの欲望はどうしようもなく執着性があり容易には捨て難いものだという人間観が根底 にあって、徹底的に規則を設けて抑制しようとしたのである。
 こうした中、時代は急速に変化していった。都も奈良から京都へと移り、隆盛した南都仏教も次第に衰え修行の場としては魅力を失っていった。その後平安末期から鎌倉時代にかけて浄土宗、真宗、禅宗、日蓮宗という新しい仏教が次々と興った。ラフな言い方をすれば信心に徹すれば雑多な戒などなくとも自ら戒は守られるという思想が主流になっていったのである。勿論修行や信心が不徹底だと 戒は守られなくなり、そういう危険性も孕んでいることも忘れては成らない。では何故鑑真があれほどまでに導入しようとした戒律は結果的に日本には定着しなかったのかである。日本は砂漠のような厳しい自然環境ではなく、四季があり、温暖で自然に恵まれた瑞穂の国である。ここに生きる日本人には自ずから穏和な気質が生まれ、それが宗教観にも大きく影響を与えているのではないかと思う。 ただ鑑真の苦闘と慈悲心を思う時、今日の世相を少しでも節度あるものとするためにも新しい今日的戒律を現代の我々の手で作っていかなければならないのではないかと思う。   参考資料 藤原東演師鑑真和上”(臨済会報)
 

 

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