2005年7月 武士道
 
 僧堂時代二十年近く共に頑張ってきた修行仲間が九州に居る。遠方のことで平生はなかなか会う機会もないのだが、つい先日島根県浜田市の寺で法要が有り久しぶりに会った。修行中は彼が一番溌刺としていて、新参者などは下手に側にも寄れぬ勢いだった。今となっては年齢を重ねた分、随分柔らかくはなったが、それでも性格は変わらぬもので今尚矍鑠として意気軒昂であった。その彼が二、三十ページはある小冊子を呉れた。表題に”公教育に禅導入を願う・禅僧は教師の本源である”とあった。内容は要するに宗教は教育のおおもとであり潜在能力を引き出す教育のためにも是非導入すべしという意見である。主張は私も賛成だが一部の宗門立の学校なら兎も角、公立の学校ではかなかな難しいのが現状である。確かに無軌道な今日の社会状況を見れば彼ならずとも何とかしなければと感ずる。特に子供たちの犯罪とその非道さ非人間的なことといったらない。これは何処かおかしいぞ、どこかが蝕まれている。自分たち先祖が大切に守ってきたものが壊されつつある危機を感ずる。しかも年々その傾向は激しさを増すばかりで、残虐な犯罪は恒常的になってきた。

 そんな折り、「ラストサムライ」という映画を見た。日本人俳優がアカデミー賞の助演男優部門にノミネートされ、もしかしたら受賞するのではないかと噂され話題を集めたが、それよりもこの映画に描かれている武士道に大変興味をそそられた。この映画は新渡戸稲造の 「武士道」が下敷きになっているということだったので早速読んでみた。
 その中に、武士はときに名誉は命より重いという一節がある。これなどは現代人にはナンセンスとうつるかも知れない。 名誉よりも自分を大切にすべきだとか、生命は地球より重いというのが現代の普通の考え方だ。しかしここで重要なのは我々は何を以て物事の価値判断をするかということである。これについては理性や合理精神に依ってということになるのかも知れないが、その基準はまことに心許ないと言わざるを得ない。或る者は欧米ばかりに目を向けたり、また利害損得のみに走ったり、或いは得体の知れない新興宗教を盲信したりと、殆ど自らの感覚だけが頼りの根無し草になり果てていると言えまいか。そこでどうしても自らの行動原理を確率する座標軸が必要になってくる。外国の場合はそれが宗教であろう。だから外国では宗教を持たない人間は信用されない。さて日本の場合はどうだろうか。私はそれが武士道≠ナはないかと思うのである。武士道の根底には禅から死生観を、神道から忠誠、祖先に対する尊敬、親への孝行、孔孟の教えからは義勇仁、すなわち義を見てせざるは勇無きなりとか不撓不屈、沈着冷静など、また礼節、誠実、自制、克己心など様々な要素が一体と成っている。それらが土着の日本的霊性と融合し高い品格と心の深さを創り出しているのである。
 これをよく花に譬える。西洋はいわば薔薇の花のごときもので、美しく香りも高いが陰に棘が潜んでいる。又なかなか散らずに何時までも茎にしがみついている。一方、日本は桜の花に譬えられる。本居宣長の歌、「敷島の大和心を人問わば朝日に向かう山桜かな」 で、色も香も 淡く自然の召すまま、風が吹けば潔く散ってゆく。桜の時期はしばしば風が吹き荒れ雨が降る。自然の力に逆らわず潔く散る。これが日本人の美意識であり情緒なのである。
 世界は数世紀の間、欧米を中心にして理性・倫理・合理性を原動力にして産業革命を成し遂げ世界をリードしてきた。しかし二十一世紀の今日、政治も経済も社会も荒廃の極に達し、利害損失、損得勘定だけでは息詰まってしまった。日々報道されるイラクの戦後処理問題にしても然りである。大国アメリカを以てしても混乱と果てしない暴力を食い止めることは出来ないのである。人間は倫理や合理だけではやってゆけないのだ。私は今こそ武士道精神の持っている品格、人間としての礼節が世界を救うのではないかと思っている。武士道≠ネどというと途端に右翼ではないかと言われそうだが、 そんな次元のことを言っているのではない。

  私は何時も近くの神社まで散歩に出掛ける。長い参道を上り詰め本殿にいたると、次々に老若男女が訪れお詣りをしている。神殿に詣でるというのは結局天地自然に手を合わせるということである。日本人は万物を神と崇め神と敬い、天地自然からあるべき道を学び身を律していった。戦後核家族化が進み、同時に父親の権威も失われ、日本固有の伝統的な深い情緒が失われつつあることを危倶する。日本精神の底に流れている武士道こそ、行き詰まった現代文明に大きな活力を与えるのではないかと思うのである。

  参考資料 藤原正彦著 「父の威厳数学者の意地」
                     (新潮文庫)

 

 

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