2005年8月 バカの美意識
 
 昭和五十年七月、僧堂修行に一応の区切りをつけて、鎌倉建長寺塔頭の長寿寺住職になった。無檀家の上、草庵のような小さな寺ではあったが、私には誠に相応しく、境内掃除が日課の毎日であった。三年ほど過ぎたある日、新しく建長寺本山の宗務総長になられた方から、教学を担当して欲しいという依頼を受けた。未だ住職して間もなくのことであり、しばしば岐阜の道場へも修行に通っていたので如何なものかと迷ったが、周囲の薦めもあり、これも御恩返しの一つかも知れないと考えて引き受けることにした。当時は僧堂という狭い世界しか知らなかったので、大役を頂いてもまごまごするばかりであった。
 それから三年程過ぎた頃、何とも厄介な事件が持ち上がった。ある寺の和尚が次のような抗議に来たのである。隣寺の弟子が最近本山より許可されて住職に就任したが、その時添付されていた僧堂在錫証明はインチキで、従って当然許可を取り消すべきだというのだ。

そこで提出された書類を改めて調べてみると、何ら不都合な点は見あたらない。その旨返答をすると納得いかないと、今度は管長に直訴した。問題の隣寺の弟子はずっと教師をしており、僧堂には行っていないというのである。では何故僧堂在錫一ヶ年の証明書が出されたのであろう。しかもその証明書にはさる僧堂師家兼管長の印も捺してあるのだ。これでは幾ら抗議されても撤回のしようがない。するとどういうルートで調査したのか、在錫証明書は実際には僧堂に行ってないのにも拘わらず、金で発行して貰ったものだと言ってきた。それを聞いた建長寺管長は頭から湯気を出さんばかりに怒り、総長に直ぐ先方へ出掛けて行って抗議し書類を撤回して貰ってこいと言った。これは難問である。先方も然るべき地位の人が出したものを実は…、と簡単に引き下がるはずがないからである。しかし宗門の最高責任者たる管長の命とあれば躊躇するわけにもゆかず、困り果てた総長は私に同道を頼んできた。それはあなたの責任でしょうと言いたいところだが、一応上司の命ともなれば私も辞退するわけにもゆかず、結局お供をすることになった。先方に電話で訪問の趣旨と面会を申し入れると、日時も決まった。ところが僧堂へお邪魔するというと、車で一時間以上も離れた市内の別院を指定してきた。
 当日十時頃約束の場所へ到着すると、そこは一見在家の住宅のような構えで、先方の管長と四人ほどの重役和尚達が座っており、早速件の事柄に釈明を求めた。すると、確かにご指摘の通り在錫年限は不足しているが、師家が見識を以て一ヶ年と同等の資格が有ると証明したのだから、余人からとやかく文句を言われる筋合いはないと言う。これには驚いた。先方も苦慮の結果致し方なくこの様に言わざるを得なかったのかも知れないが、馬鹿も好い加減にしろと思った。叢林同盟会という臨済宗各派専門道場で作っている会の規約に違反するのは勿論のこと、常識的に言ってもそんな理屈が通るわけがない。 しかし結局そこから話は進まず双方憮然として別れた。この僧堂の疲弊振りを目の当たりにする思いであった。そして鎌倉に帰ってすぐ、経過を報告するため隠寮に管長を訪ねた。管長は苦虫を噛みつぶしたような顔をして聞いていたが、最後に「解ったご苦労様」 とだけ言った。帰り際腹の虫が治まらない私は、「僧堂の師家が車で一時間もはなれている所で生活しているとは何事ですかね。得体の知れぬ女性の影もちらちらしてましたよ。」と言った途端、「たっ!」 と激しく叱責された。その時のことがずっと頭に残った。
 話は変わるが、下手の横好きで日本画を習っている。私の得意は南瓜と芋だが、 我ながら旨そうと思う。それは兎も角、高名な画家の絵を見て思うのは 「画品」
ということである。どんなに上手に描けていてもその作品から漂う品格が無ければいい絵とは言えない。近頃大相撲の力士にもこの品格が無くなってきたように感ずる。勝ちさえすれば良いなら単なるスポーツで、特に横綱とも成れば尚一層強いばかりでは駄目だ。勝負の結果を人前では決して喜怒哀楽で表わさない美学があるのだ。これが国技と言われるゆえんであろう。

 私は管長から厳しく叱責された時、何で私が叱られなければならないのかと思った。しかしいや待て、この辺の処かなと考え直した。相手の非を咎め攻撃することは誰にでも出来る。しかも尚黙して語らずという処に人間の深さと品格があるのではないだろうか。カッタカッタと下駄の音”で得意満面、人を押しのけてでも自分を主張し相手を打ち負かす。これだけで全て良しとはしない生き方を、 私はバカの美意識″と呼んでいる。禅語の擾擾忽忽たり水裏の月である。煩悩妄想の真っ只中で、全てを飲み込み泰然自若とした生き方もあるのではないだろうかと思ったのである。

 

 

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