2005年10月 共に生きる
 
  今年の夏の暑さは異に厳しかった。そこで愛犬ハチの午後の散歩は日が落ち、涼しくなった頃を見計らって出掛けることにしていた。そんなある夜、例によってハチを連れ、近くの橿森公園に差し掛かると、暗闇に一人の青年が坂道を利用してガラガラと音をたてながらスケボーで遊んでいた。さして気にも留めず公園を通り過ぎ、それから三十分ほど夜の街をハチに引きずられるように歩き回った。帰路再び公園に差し掛かると暗闇の中、先ほどの青年がスケボーを小脇に抱えてこちらに向かって来るではないか。おっ!と一瞬思った。すると、「老師さま、私です。」と言う。そう言われてよく見ると門前Tさんの孫である。「な〜んだ、あんただったのか、誰が夜中に一人で遊んでるのかと思ったよ」「先ほど老師さまが通られたので、お帰りを待っていたんです。老師さまはお爺ちゃんと生前親しかったそうですが、お爺ちゃんの話を聞かせて欲しいのですが……」と言った。

二年ほど前、彼の家が鉄筋四階建てで新築落成した折り、当家から頼まれ雲水全員と先祖供養に伺ったことがあった。その時父親から、この長男坊は高校を中退して今は風来坊になっていること、死んだお爺ちゃんが大好きで、ある時お爺ちゃんの抜けた歯が出てきたら、爾来紐を通し何時も首に提げていることなどを聞いていた。近年見かける彼の風体は、髪は真っ茶色に染め上げ耳に大きなピアス、歩き方は肩をいからして、何とも嫌な子供になってしまったものだと危惧していた。ところが久しぶりに面と向かったこの時の彼は茶髪も止めピアスも外して実に清々しい顔になっていた。「いつでも良いからお寺に来いよ。お爺ちゃんの話をいろいろしよう。」と言って別れた。ところがそれから一ケ月が過ぎても音沙汰がなかった。ある日偶然父親に会ったので、その時の息子との遣り取りを想い出し、「何時来るか、儂はずっと待っているのだが……。」と言った。すると間もなく本人から電話があり、その翌日の夜、遣って来た。
  私がこの寺に住職したのが二十三年前。殆ど緑の無かった所だったから周囲に頼るべき人もなく、何をするにもまごまごするばかりであった。間もなく庫裡の新築計画も持ち上がり更に大変な日々が続いた。そんな時、丁度仕事を息子に譲って楽隠居となったTさんは殆ど毎日寺に遣って来ては、好きな煙草をぷかぷかやりながら台所辺に蜷局を巻いて居た。お寺のことで判らないこと、特に長い年月培われた寺との人間関係などはTさんに聞けば大抵教えてくれた。何事につけても親切な人で、二月節分星祭りの諸準備などではどれだけご苦労掛けたか知れない。凡そ十年間続いた庫裡や本堂、禅堂などの工事中も何かとお世話に成った。
そして伽藍も全て完成し無事落慶も済ませた年、それは突然の死だった。彼が小学校四年生の時だったという。ある日、両親はあたふたと出掛けてしまい、訳が分からぬまま生まれたばかりの末の妹を抱っこして一晩過ごしたそうだ。翌朝はじめてお爺ちゃんが死んだことを聞かされ、ショックだったという。私とTさんとはこういう激動の十年間を共に過ごし、想い出が山ほどあった。彼から請われるまま、改めて昔の記憶を辿りながら取り留めもなくいろいろな話をした。彼は目を輝かし一生懸命聞いていた。
  「ところであんたはこれから何するの?」と尋ねると、「随分遠回りをしましたが漸く方向が見えてきました。一週間後、山形へ靴の職人を目指して修行に出掛けます。」と言った。「それは良かった。あんたを見ていて一時期はどう成るかと心配していたが、自分のやりたいことがそうしてはっきりしたのは本当に良かった。」身だしなみもきちんとし、さっぱりした顔になった二十一歳の青年を目の当たりにし、私は安堵の胸を撫で下ろした。この時ふっと、彼をどん底から救ったのは死んだお爺ちゃんに違いないと感じた。父親は自営業で朝から晩まで忙しく働き、一方母親も看護師として夜遅くまで働いていた。そういう幼年期何時も彼の心の支えに成っていたのがお爺ちゃんだったのである。死んだ時が十歳前後というから、屹度難しい話をして貰ったわけでもあるまい。お爺ちゃんの優しい眼差しが荒れ狂った青年期の危機を何処かで支え続けたに違いないと感じた。死んでも尚孫を守ったのだ。

 私は人間の肉体は死んでも魂は残るなどという考え方には与しない。しかし彼がお爺ちゃんと一緒に生きた何年間は小さな子供の胸に深く刻み込まれていたのだ。お爺ちゃんと共に生きた温もり"が彼の心を真っ当な方向へ向かわせたのだと確信する。人を救って行く唯一の方法は"何もしないことに全力を挙げる"ことだと言う河合隼雄氏の言葉がふっと心に浮かんだ。傍らに存在し共に生きることがどれ程大きな力となるのかということを感じた。

 

 

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