話は変わるが、代宗は国師の礼を以て慧忠国師を迎え、宮廷から退かれる際には常に自ら玄関まで送られたそうである。このため家来達が、「天下の皇帝が坊主を送るとは‥‥」と讒言した。皇帝がこの事を慧忠国師に申し上げると、次のように答えられたという。「膿が天国の帝釈天から地上を眺めると、粟粒撒き散らしたように天子と名乗る者は多い。が稲妻があっという間に消えるようなものだ。地上の天子などたいしたものではない。そんなことに心を囚われてはいかん。本来の面目、仏性を自覚してこそ人間の値打ちが決まるのだ。」慧忠国師はどこまでも堂々と真理を説かれたので皇帝は益々帰依したという。
さて次に何故慧忠国師はご自分で答えられずに弟子の耽源に答えさせたかである。これは老婆親切ではないかと思われる。雲水の参禅も同様で、何回答えを持って行っても老師はチリチリと鈴を振るだけで何の反応もなく、進退窮まり崖っぷちに立たされる。こんな時は誰しも藁をも掴みたいわけだから、ここで一言あればどれだけ楽が判らない。老師は何と不親切な人なのかと恨み言の一つも言いたい心境になる。しかしこんな時下手にものを言えばそれが却って本人を苦しめるもとになるのである。どれだけ捨てきって心をスッキリさせているかが常に間われるからである。自分の中に何も無くなれば答えは自然に得られる。これと同様で、代宗が 「請う師塔様」と問いかけた時、只じっと黙っておられた。この良久が実に重要で、ここに無縫塔がはっきりと表現されているのである。
次に耽源の謎めいた詩であるがこんな解釈が出来る。「見るものと見られるものとぴたっと一つになって、その一つになって何も無いところが黄金の世界、本来の面目である。風はどこまでも穏やかで浪は平らか、森羅万象あるがまま、そこに何か姿を認め形を認めたら早や既に無縫塔ではない。」如何であろうか。益々この無縫塔が解らなくなってきたと仰るに違いない。
話は変わるが、私は毎朝居室の庭先、白い椿の根本に向かいお経を上げる。生前母が、「お前の側で眠りたい。」と言っていたので、分骨して椿の木の根本に埋め其処に観音の石像を建てた。それから部屋に戻って内佛にお詣りし、開山や世代、智香さん、棚橋さんや市十郎さん、父や母兄弟にお経を上げる。お経が済んだら暫く合掌をして祀ってある母の位牌と静かに対峙する。このとき何か心に悩みや問題があればそのことを打ち明け相談することにしている。「かくかくしかじか、どうしたらいいか迷って居るんだが、私はこう思うけれど母さんはどう思う?」と問い掛ける。すると母はいつも、「私もお前と同じ考えだよ」と言う。そこで私はこれで良かったのだと確信する。
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