しかし各道場は師家の采配のもとに全て一任され、部外者がとやかく言う余地はないのが現実である。一応、僧堂補佐員が二名居て、師家を補佐するという建前にはなっているが、その補佐員も嘗ては師家の下でボコボコにやられているから、同等にものが言える立場にはない。結局解っていても黙ることになる。では師家の方はどうかと言えば、生活エリアは雲水達とはずっと離れた寺の一番奥まった所に居り、例え殴り合いの喧嘩が始まったとしてもその気配や物音さえ解らない。もし何となく変な雰囲気を感じて師家の方から雲水に尋ねたとしても、殆どの場合は何事もなかったように装うのが現実である。ちょっとぶん殴られたからと言って、わんわん泣きながら師家に訴えてくることなどない。皆修行だと思ってどんな理不尽なことがあってもじっと我慢するからである。それでこそ修行なのであり、痛いの痺いのといちいち泣き言を聞かされたのではこちらも堪ったものではない。元来道場とはいじめる所で、和気藹々皆が仲良くやっているのではお話にならない。ただ問題は、いじめが修行というレールの上に乗っているか、それとも全くの私恨からでたものであるかである。しかしこれも修行に親切と言われればなかなか判別は難しい。
私はその解決策の一つとしてこんなことを考えた。まず問題なのは全てを師家一人に任せていることである。師家はずっと僧堂ばかりに居るから殆ど世間知らずである。だから現代の若者気質とか、学生生活の過ごし方など知る由もない。勿論そんなことは知らなくても良いわけで、下手に知って世間に迎合するようになったら師家の価値はないと言える。しかし一方ではこんなことで現代っ子の若者に対処できるわけがない。そこで第三者機関を設け僧堂内のことは全てオープンにする。所謂情報を公開して公平な判断を仰ぐのだ。ここではむしろ子育てで様々な苦労を重ねた者こそ適任で、更にその中には現役の幹部雲水も入り、いろいろな意見を交換するのである。そういう遣り取りの中から雲水自身が世間を学んでゆくのである。こういう教育は師家の役割というよりむしろ世間に出て壇信徒と遣り取りしている一般の和尚の方が良い。
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