そこで重要なことは「規矩」である。僧堂修行の命脈は一重に厳格な規矩にあると言って良い。つまり僧堂での日程や行事、食事の作法や出処進退に至るまで事細かな規定である。こういう規定が連綿として伝わり代々継承されてゆくのである。ところが尼僧堂の場合は全てが新たな出発であるから、この規矩についても一から作ってゆかねばならず、これもなかなか大変な作業であった。
さて入門してきた者を見ると、意外なことが解ってきた。女性が髪を切って剃髪するというだけでも相当な覚悟が要るであろう。その上般若木綿の着物に墨染めの法衣、お化粧一つ出来ず、冬は素足に暖房無しの生活、これだけでも生半可な気持ちでは尼僧には成れない。しかしそれが必ずしもそうではなさそうなのだ。約半数の者は父親のあととりとして住職するため、必要な資格を得る目的で来ている。それは恰も仕事を継ぐという感覚で、この割り切り方はいかにも現代子である。剃った髪はいずれ又生えてくるということなのであろう。
次に残りの半数だが、こちらは純然たる出家組で、大半が五十代〜六十代の高齢者である。様々な人生を経験し葛藤の末、全てを捨ててこの道に辿り着いた者達である。朝早くから起きて日中は肉体労働に追われ、深夜遅くまで坐禅を組み、良く体力が持つものだと感心させられる。そんな中で開単と同時に入門してきた三十代前半の一人の尼僧さんが居る。彼女は東北地方の国立大学を卒業後出家した。在学中通っていた喫茶店の女性店主と仲良しになり、ある時、「ちょっと変わった所が有るから一緒に行ってみない」 と誘われた。行ってみると、そこには小さなバラックのような建物があり、一人の和尚さんと数人の住人が共同生活をしていた。パパラギの里″と言い、主催者の和尚は厳密に言うと和尚ではなく本業はピアノの調律師である。嘗て僧侶を目指し禅寺の弟子になったのだが、その後心変わりして日本一周の行脚に出た。その途次、たまたま通りがかった岩手県のこの地が気に入り、廃材を利用して自力で建物を建て、行き場のない人や不登校の子供などを預かり共同生活を始めた。半年間は九州へ出掛け調律師の仕事をして稼ぎ、その資金を残りの半年間のパパラギの里での共同生活に充てているのである。何故彼女がここでの生活に魅力を感じたのかは解らない。しかし兎も角大学卒業後はパパラギの里での炊事や作業に明け暮れ、時に盛岡市内にまで托鉢に出掛けるという日々を過ごしていた。最初は両親もこの得体の知れない共同生活に不信感を持ち、「何だかオウム真理教みたいだけど、大丈夫なの?」 と心配したそうだが、主催者の和尚に直接会い生活振りも見て一応理解してくれたという。
そこでの生活が数年経った頃、丁度尼僧堂が新たに開単されたというので、是非本格的な禅の修行を体験したいと入門してきたわけである。最初に入門してきた五人のうち四人は一年が過ぎて帰ってしまった。結局、彼女だけが一人残って頑張っている。俗世の価値観に犯されず性格も良いので、このまま修行を続けてくれたらさぞかし立派な尼僧第一号誕生かと楽しみにしていた。ところが間もなく帰りますと言うので理由を聞くと、こういうことであった。
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